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形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

ジュエリー文化史:Stone Setting (石留め)

ジュエリーに興味をお持ちの方が必ずなさる質問に「ヨーロッパと日本の石留めは違うのですか?」があります。また彫金をある程度経験された方からも「カルティエやブルガリみたいな雰囲気にならない。何故なのか?」と聞かれます。このことはジュエリー他社の方針や技術にも関係があり、コメントを避けてきました。
ただ、こだわり続けてきた「石留め」をまとめておくべき年齢になったと感じていますので、時間をかけて、技術面から文化史としての「石留め」まで、コメントをつないでいきたいと思います。

アンティークジュエリーということもあり、過去に一度だけ「石留め」について書いた文章がありますので、参考にしてください。
2001年11月発売 西洋アンティーク オクルス No.10 アンティークジュエリー「石留めの技法」
技術面だけを重視しているのは、これらアンティークの技術も再現できるからです。アンティークの雰囲気を出したいときに、デザインを現代、技術をアンティークとした方が、その逆より上品に仕上がります。2001年のことでもあり、今回、いずれ加筆、修正をするつもりです。

2011年10月18日、今日、感謝の念がこころを満たしています。「石留め」の資料を整理していて気づきました。ボブに心より感謝します。

1978年、私はロンドンにいました。ロンドン・ポリテクニックス・サー ジョンカス・スクール オブ アーツでジェリーの勉強中でした。「石留め」の授業が終了したとき、先生のボブに声を掛けられました。
「ジョ―ジ 、この後どうする?ロンドンで働くのか?」
「いえ、ヨーロッパの各都市を廻って、日本へ帰ります。」 
「プレゼントがある、帰国前日に会いに来てくれ。」
当日、ボブは40数枚のコピーをくれました。
「約束だ、絶対誰にも見せないでくれ。」
その時は、ロンドンに競争相手を作りたくないのか、職人らしいなと思いました。
今日、そのコピーの正体がわかりました。

スイス・ ショ ド フォンにあるカレッジの、時計とジュエリー;アパレンティスコース教本として、1981年にフランス語でプリントされた内容と同じものでした。

ボブがドイツ・ホルツハイムで修行したことは知っていましたが、アパレンティスコースはスイスだったようです。まだ出版もされていない大切な授業プリントを帰国する私にプレゼントしてくれたのでした。
外国まで行ってやっと手に入れた、彼にとって大切なプリントだったはずです。同じジュエリー職人として、その大切さは十分に分かります。特に、ボブが修行したこの時期はハイ・ジュエリーの基本がヨーロッパで確立した大切な時でした。実際、帰国した私もその後のヨーロッパジュエリーテクニックをやすやすと実践することができました。同じ基本からの発展形はすぐに理解できます。授業の手法には?ですが、ボブが与えてくれたものの大きさで、今の私はあります。

 

11月1日、広島三越から帰ってきました。Petite Collierはじめての試みだった、ファッションフロアでの販売会は成功だったと思います。ランバン、アルベルタフェレッティ、アルマーニのブティク前でのご紹介は、ブティクの皆様方のご協力を得て、大変楽しいものになりました。Petite Collierがビジュ・ド・クチュールであることを証明できたと思います。「美しい色彩とそれを実現する為の高い技術」のコンセプトは皆様に理解されたと思っています。
Petite Collierは「美しい色彩」をビンテージガラスとデザイナーの色彩感覚で実現しています。では「それを実現する為の高い技術」のポイントとは?ずばり、「石留め」です。装飾文化史(4) ビジュ ド クチュール:プティコリエの原点ですでに書いていましたが、ビンテージガラスを活かすためには「石留め」が大切なのです。

1950'sに光学的にカットされたダイヤモンドはより輝き、サファイア、ルビー、エメラルドは美し色に透明度が加わります。宝石研磨技術の発展はハイ・ジュエリーのスタイルを作ります。より多くの光で宝石を輝かせるための「石留め」と台座の作りです。Clauw SettingはProng beads settingになっていきます。どちらも「爪留め」の和訳しかないのですが、Clauwは猛禽動物の爪、つまり爪で抑え込む感じです。Prongは棒、つまり棒の先に引掛け、玉状に留めるのです。そもそも宝石を留める金属部分を台座と呼ぶと宝石をその上に置くことを意味します。台座の上において、爪で抑え込めばClauw settingになります。しかし、これでは十分な光を得られなく、しかも金属の色が宝石の色と透明度に影響します。Prong beads settingでは棒の先にカットを入れ宝石のガードル(カットされた宝石の側面)を引掛けるのです。しかも小さな玉状の爪で金属の影響をなくします。台座は棒を長くして空中に浮かすのです。座と呼ばれる部分の役目は宝石を置くためではなく、棒が広がらないための桟の役目になります。

もう30年前になりますか、当時、石福ジュエリーパーツ株式会社の設立準備をされていた橋本社長が、ヨーロッパの台座サンプルをお持ちになり、私の小さなアトリエを訪ねられました。どんな台座を製品化するべきかのご相談でした。今思えば、バブル経済が始まったこの頃が、日本のジュエリーをグローバル化するチャンスだったのかもしれません。結局、短い爪でテーパーしていない台座が商品になりました。伝統文化としての彫金は素晴らしいものですが、ジュエリーへ応用した彫金は宝飾のコンセプトにはなじみません、だからこそ、彫金ジュエリーはアートを志向します。私のアートの定義では、宝飾は文化であり、アートは常に文化の外に生まれ人々の認知とともに文化になっていきます。認知されたアートは商品になります。文化となり、商品になったアートはもはやアートではありません。アート風の商品です。アートと宝飾は商品企画としては共存しても、異質のものです。
短い爪では宝石を浮かせることが出来ません。テーパーしていない台座に石留めをすると、両眼を持つ人の目には、宝石の周りに多すぎる金属が見えます。どちらも、宝飾の世界では品質の高い宝石には用いません。文化としての宝飾は美しさがすべてです。商品企画としてはさまざまなジュエリーがありますが、今、私が問題にしているのは、宝飾の基本です。

Petite Collierの「石留め」は、クリスチャン・ディオールのビンテージ・アクセサリーのみ、しかも短い間、ディオールがこだわりで求めた「石留め」を完成形にして用いてます。具体的には、長いプレス爪をSの字形に曲げて,上のCの部分にガラス石のガードルを引掛けるのです。クリスチャン・ディオールのビンテージ・アクセサリーは薄く、細いプレス爪を用いたため、引っかかりがあり、メンテナンスが大変でした。Petite Collierは長く、厚いプレス爪を使っています。しかも引っかかりのない、ジュエリーの石留めのように仕上げます。厚いプレス爪でガラス石を留めるのですから、技術が必要です。しかし、ジュエリーの「石留め」で、クンツァイトやスフェーン、ロードクロサイトを留めるのに比べると、ガラスは十分な硬さがあります。こうすることにより、透明で美しいビンテージガラスはガードルのみで支え、浮かされて光り輝くのです。ハイ・ジュエリーのコンセプトがコスチュームジュエリーに活かされた珍しいケースといえます。

平成元年の頃、2階で仕事をしていた時、1階のショップから「すぐ来て下さい。」と声がかかりました。
降りて行くと、表参道の私の店にはなじまない空気感があり、スーツを上品に着こなした小柄な紳士がきれいに立っていました。「良い石を使い、ちゃんとした石留めをしていますね。」第一声を覚えています。当時は「パヴェ留め」の商品が多かったと思います。
「パヴェ留め」も1950年代になってスイスの時計メーカーを中心に新しいテクニックが加わります。それ以前の「古いパヴェ留め」を私は好きで用いていました。エドワーディアンのカルティエスタイルのイタリアバージョンです。「古いパヴェ留め」は、イギリスでは1800年代からのより伝統的なレリーフの低いスタイルであり、イタリアは彫刻的なレリーフの高いスタイル、そしてカルティエはその中間で上品な仕上げになっていました。新しい、古いは洋彫りタガネ(フラット)での地金寄せカットによります。より石と石を接近させるため、少ない地金でパベ留めをするためのカットです。この留め方をすると石と小さな金属玉しか見えなくなります。洋彫りタガネ(ラウンド)を深く入れる古いタイプのパヴェ留めは、少しアンティークの匂いがして私は好きです。
日本に帰ってきて今迄に、「石留め」の話でちゃんと楽しく話せたのはこの人が最初で最後でした。
帰りがけに、なにげなく名刺を頂きました。そういえば、ジュエリーの話ばかりで互いのことは何も話さなかったのでした。上品な紳士の名前は諏訪恭一氏でした。

フランス革命の前後に起こった「パヴェ留め」の歴史は大変興味深いものです。またアンティークジュエリーの真贋をはかる上で重要なヒントを与えてくれます。そこで「パヴェ留め」が生まれる歴史を見てみることにします。

1492年、レコンキスタを完結させたスペインとポルトガルは強力な軍事力を持ったものの文化的に豊かではなく、東方 (イスラム世界)への憧れは世界の海に航路を開いていきました。絹,砂糖 、香辛料、金銀、宝石といった物資だけでなく、学問や技術を求めるスペインやポルトガルは航海者を次々と送り出していきました。
1492年コロンブス(スペイン)のアメリカ大陸航路、
1498年ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)のインド航路の発見、
1519年マゼラン(スペイン)の世界周航。
この大航海時代は金工、宝飾の世界を劇的に変化させ始めます。
ヨーロッパでは西アジア(メソポタミア、エジプト、ペルシャ)から地中海世界(ギリシャ、ローマ)で歴史を作ってきた金工の技術は、13世紀のイタリア・ルネッサンスを経てドイツ(神聖ローマ帝国)でひとつの完成をみていました。
一方、イスラム世界(インド)からの技術と新大陸からの金銀、宝石はスペイン、ポルトガルで結びつき新しい技術に発達してゆきます。「パヴェ留め」の系譜はこのイスラム世界(インド)からのものです。

ついでながら、ドイツ(神聖ローマ帝国)での完成形はオーストリア・ハプスブルグ家、特にルドルフ2世のコレクション、そしてドレスデンの秘宝コレクションに見ることができます。あらゆる金工細工にべゼル(ふくりん)石留めとその発展型の石留めが用いられています。ここで私には面白い発見があります。Romansetting(ローマンセッティング)という石留めがあるのですが、9世紀初頭に作られたオーストリア・ハプスブルグ家の聖遺物入れにはローマ時代と同じ技術が使われています。ローマ時代、べゼル(ふくりん)のパイプ部分を長くしてその途中に帽子のツバのように円盤をロー付し、パイプとおなじ径の穴に差し込む技法がありました。その石留めの仕上りが、、宝石の周りに同心円の溝が1重、2重と取り巻くことになり、独特の特徴がありRomansetting(ローマンセッティング)と呼ばれています。しかし、スイス・ ショ ド フォンにあるカレッジの教本には(ローマンセッティング)の技法はでてきません。1981年までの何時の頃まで用いられたのか、調べてみる必要があります。
一方ボブにもらったコピーには(ローマンセッティング)が紹介されているのです

ところがボブに教わった(ローマンセッティング)は、仕上げの外観が同心円の溝になるところはローマ時代と同じなのですが、まっったく違うテクニックなのです。そしてこのボブに教わった(ローマンセッティング)は「パヴェ留め」のルーツの一つになりました。
両者の大きな違いは板、線からふくりんの石枠を作るローマ時代の(ローマンセッティング)と、金属の塊に穴を掘って宝石を埋め込む大航海時代の石留めの違いです。そして外観上の類似点である同心円の溝は大航海時代にスペインがコロンビアを植民地にしたことによります。
イスラム(インド)からもたらされた技術は金属の塊に宝石を埋め込み、その宝石をより露出するように文様に彫り出す石留め方法でした。ポルトガルはインドやブラジルのダイヤモンドをこの石留め方法で生命の樹の文様に彫り出します。しかし、スペインが植民地にしたコロンビアからはエメラルドが入ってきました。この割れやすい宝石であるエメラルドは、金属に叩き込み表面を彫る石留め方法では割れてしまいます。そこで考え出されたのがもうひとつの(ローマンセッティング)です。掘られた穴の周りに溝を掘って宝石の周りに薄いふくりんを作り、ふくりんで安全に宝石を留めるのです。外観上は宝石の周りを溝が取り巻き、ローマ時代の(ローマンセッティング)と似ています。私の教室で教えているのはこの方法です。
金属の塊に穴を掘って宝石を埋め込む最もシンプルな石留め方法は Gypsy Setting(ジプシー セッティング)と呼ばれています。インド起原の民であるといわれているジプシーの名前を持つ石留めが、インドに始まっていたことは特筆すべきことでしょう。Gypsy Settingも(Split Gypsy)や(Flat Gypsy)と進化をしていきますが、穴を掘って宝石を埋め込むスタイルが変わることはありません。地中海東部で発達した板と線から(蝋付け)でつくる技術と、全く違う発想の技術がインドにあったわけです。以前から何度も書いていますが、この金属の塊に穴を掘って宝石を埋め込む技術はメソポタミアで早くからみられる Inlay(インレイ・象嵌)から発達したと思われます。おもに鉄や真鍮の溝に金銀をたたきこんだ象嵌では、穴の中で金銀がつぶされて延び埋め込まれます。宝石の場合は、逆に周りの金属が叩き延ばされて宝石を埋め込むわけです。メソポタミア一帯 がイスラム化されると、この技術はさらに洗練されます。宗教上ジュエリーを民に禁じたイスラム世界では、工芸品にこの技術は用いられ、各種の素材で象嵌は発達します。大理石、木、象牙、翡翠、などに穴が掘られ各種素材が埋め込まれました。またあとで説明しますが、イスラム・インドのムガル帝国で用いられた Kundan Setting(クンダン セッティング)は、この象嵌系譜の美しい完成形だと思います。

大きく寄り道をしました。パヴェ留めの話に戻ります。イスラム世界(インド)からの技術と新大陸からの金銀、宝石が融合した場所、スペイン、ポルトガルで始まった新しい石留め技術は 金属の塊に宝石を埋め込み、その宝石をより露出するように文様に彫り出す石留め方法 Cisele’ Setting(シズレ セッティング)とRoman settingでした。シズレ セッティングとはこの石留めがフランス・ロココで最も美しく用いられ、それ以前に特別なな呼び名がなかっため仏語を使いました。フランス・ロココではこの呼び名がよく見られます。意味は単なる「彫り留め」です。この石留め方法がパヴェ留めに発展するまでには、まだ200年の歳月が必要でした。 

続いてスペイン、ポルトガルに1600年頃に現れた石留め方法は Semi esfe'ricos setting(葡・西)いわゆる半球留めです。ダイヤモンドがローズカットされるようになった頃,1600年代の流行です。裾模様のついたドームの上部に宝石を埋め込む、重々しくも華やかで荘厳なバロック期の石留めです。この石留めに先立ってはドームではなく、パイプ(ふくりんより厚い金属で作る)に裾模様を浮き彫りにした石留め方法がありました。これらの石留めは、外観のデザインにイタリア・ルネッサンスの影響を受けています。ただ、イタリア系譜と違うところはドーム、パイプともにGypsy Settingと同じように穴の中の壁に彫りを入れて段差を作りガードル部分を引掛け、薄くなった上部の壁を叩き込むのです。こうすることにより、宝石を浮かせて留めるためローズカットの平らな底でも 尖った底でも、自由な高さに留めることができます。外観が同じように見える、パイプ留めとふくりん留めの違いは宝石を石枠の下部に置くのか、引掛けて上部に浮かすかの違いです。先にも書いたようにこの系譜の違いは現在まで引き継がれています。パヴェ留めの穴はこの段差をカットすることにより、薄く軽くなり、ガードルの厚さが違っても高さを自由に留めることができます。

スペイン、ポルトガルのSemi esfe'ricos settingの外観に影響を与えたイタリア・ルネッサンス期の石留め
はCu'spide(伊)settingです。劣頭留めとでも訳せるこの石留めは、ふくりん留めの発展形でイスラム世界の影響で生まれました。非常に特徴のある石留めなので、パヴェ留めの系譜から再び離れますが説明したいと思います。  

ふくりん留めとは薄い板材で宝石を取り巻き、底をつけた箱型の石座を作り、上部の金属を宝石のうえに押しつけて留める石留め方法です。メソポタミア文明期から用いられ、日本にはおもにペルシャ経由で伝わり金属工芸の石留め方法となっています。日本の金属工芸はギリシャとペルシャで分かれる以前、ローマと同じルーツを持っているのです。

このふくりん留めにはCabochon cut(カボション カット)の宝石がおもに留められるのですが、原石を磨いただけの宝石はふくりんが高くなりすぎるため、ふくりんをギザギザや波型にカットされ始めます。有名なところでは、Charlemagne(シャルルマーニュ)とともにAD.814年から眠っていた聖遺物入れのペンダントなどに見られます。それでも高さが足りない時には、ふくりんに収め、さらにふくりんに爪を蝋付けして抑え込む、Clauw Settingのプロトタイプが生まれています。

12世紀、ゴシック期になるとふくりん台座に面白い流行が生まれます。Pie-dish bezel(ピー ディッシュ)豆皿形と呼ばれる、台形形の皿のようなふくりん台座です。

2012 2 14 久しぶりに書き込みます。今回は、プティコリエのパーツ探しにパリに行ってきました。そして200年を超える歴史を持ち、有名宝石店のパーツも作ってきた製造メーカーに出合いました。大きな体を静かな時の流れにまかせるように、19世紀そのままにたたずんでいました。どんな人たちがこの部屋に訪れたのか、19世紀のパーツや、クリスチャン・ディオールのビジュ・ド・クチュールで懐かしいパーツも、いっぱいみつかりました。いずれプティコリエに登場します。私は以前から外国で紹介ゲームを楽しみます。最初は信用出来る人から始め、紹介、紹介で訪ね歩くのです。一人旅は想いを過去へ引き戻し、華やかだったパリを知っている人たちの笑顔は心を満たします。今の日本でこの贅沢な美しさは絶対生まれ変わるはずです。
3月3日(土)、4日(日);伊勢丹浦和店 インプレッションに初めて出店します。レオナール、ハナエモリ、ミスアシダ、フェンディ、バカラ、グッチといったなかでプティコリエ、プティフィオリはどんな輝きをみせることが出来るのか、今から楽しみです。当日は私もプティコリエ・チーフデザイナーの林もご案内に立ちます。浦和の皆さんとビジュ・ド・クチュールのことなどをお話ししたいと思います。ぜひ、お立ち寄りください。
ただ、2012年冬のパリは寒かった。

Pie-dish bezelにカボション カットの石を入れてふくりんを押したり、叩いたりして石を留めていきます。均等に倒すと錐になりますが、15世紀になるころ新しい形に発展していきます。
つまり、押したり、叩いたりすればふくりんの円周は小さくなり、のこったふくりんの金属は部分的にしわになります。このしわの部分を高く残せば爪になり、叩き込んだ部分をへこんだ装飾として様式化することがで
きたのです。
この板作りのふくりん型はルネッサンス期になり作り方に変化が起こります。ビザンツ帝国の崩壊に伴う技術者のイタリア流入はイスラム世界の影響を受けた技術をイタリアにもたらします。この板作りのふくりん型を造鋳(キャスト)で造形的に完成させて作ったのです。これがルネッサンス期のCu'spide(伊)settingです。
ただこの石留めは長く続かず、板作りのふくりんに戻ります。ドイツ(神聖ローマ帝国)ではこの後 、立体的なオブジェ作りに鋳造がつかわれます。正確に言うとローマ法王 PaulⅢ(1534~1549)が授け物として造らせた指輪など、限られた身分の人だけのものに見られます。多くの作品、とくにルネサンス期らしい、大ぶりなペンダントなどは、よく見るとローマンsettingと同じように、板作りで、Pie-dish bezelを叩いてへこませて成形し、後から組み合わせています。イスラム世界の影響を受けた技術を持った職人は本当に少なかったのでしょう。このあたりの違いは当時よく用いられたエナメル(七宝)細工を見ればわかります。ロー材はエナメルをはじくので、鋳造か一体作りの作品でなければ自由にエナメルは流せず、エナメルを流したパーツを組み合わせなければなりません。またふくりん(bezel)で石留めをしていた職人が、鋳造の台座に宝石を叩き込むのは難しいでしょう。このあたりが、日本と同じような事情であったと思います。飾り職人がヨーロッパ風のジュエリーを作った鹿鳴館の時代、用いた技術は彫金の技法でした。日本と同じ金属工芸の歴史を持つイタリアもふくりん(bezel)が本流なのです。日本とイタリアのジュエリーはよく似た技法です。

再びスペイン、ポルトガルの「パヴェ留め」の系譜に話は戻ります。
ルネッサンス期のCu'spide(伊)settingの影響を受け、スペイン、ポルトガルに1600年頃に現れた Semi esfe'ricos setting(葡・西)はその装飾を完成させながらネーデルランドやイギリスで18世紀初頭まで用いられたバロック期を代表する石留めです。私もポルトガルとイギリス製のSemi esfe'ricos settingクロスをコレクションしていますが、その美しさは何度見てもあきません。

突然ですが、2月19日(日)NHKスペシャル;ヒューマン(3)をみて,去年の文化服装学院・工芸科・文化史で講義したことに、より確信が持てました。そして、現代人の脳でしか考えない偉い学者先生たちに少しイラ
イラしました。1万5000年前のトルコ;ギョベックリ・テベ遺跡の蛇のレリーフが、どうしてエジプト蛇、メソポタミアの合成獣のうろこ、三輪山の蛇と同じ精霊だときずかないのか?不思議です。あの遺跡は神殿とは呼べません。まだ神も宗教も生まれてはいないのです。装飾文化史(7)ドングリの最後をみてください。

フランコ・カンタブリア>アララト>チャタル・フュユク>シュメル、エジプト>ドラヴィタ・スリーパーダ>チベット・カイラス>奈良・三輪山>アメリカ・セドナ、シャスタ>インカ・マチュピチュ
アンズーはビジョンとともに羽ばたき、世界は原初の水から、渦巻とともに原初の岡が生まれる。
形あるものと装飾は黙して語る。真実を語る。
オークと浄火の結びつきは黒海の出来事に始まったと思います。

当たり障りがないように、韻文的な表現にしました。正しくは「フランコ・カンタブリア>ギョベックリ・テベ>黒海;大洪水>アララト>チャタル・フュユク>シュメル、エジプト>ドラヴィタ・スリーパーダ>チベット・カイラス>奈良・三輪山>アメリカ・セドナ、シャスタ>インカ・マチュピチュ」です。

黒海;大洪水>アララト>チャタル・フュユクまでの期間は人類共通のビジョンとして、神話になった出来事です。エジプトのピラミットが墓か神殿かなど、いかに矮小なことかわかりますか?チャタル・フュユクの壁に描かれたピラミットをみれば理解するはずです。インカ・マチュピチュはどうしてあんな山の上に?ピラミットを探してください。山の神を祀る日本の神社ではピラミットを探してください。すべてはビジョンです。フランコ・カンタブリアの表象はギョベックリ・テベでも見つかるはずだし、ベルベル人と同じ表象も見つかるはずです。1万2000年前はヨーロッパとアフリカは陸続きだったころです。同じ文化が見つかります。これから多くの遺跡がアフリカで見つかって、歴史が書き変わっていくと思います。とくに養蜂の歴史は面白いでしょう。カールガなどのオアシスに注目しています。オークが神木、多産の樹、になった理由ももうわかるはずです。黒海周辺にはオークの木があり、ドングリ文化があったのです。そして方舟はオークで作られました。世界の鳥居も、だからオークの樹で作られます。平清盛が厳島神社の海にいっぱいのたいまつ(灯篭)を浮かべたこと、方舟のことを知る平家、伊勢平家のルーツは? 
今年のNHKはぎりぎり踏み込みましたね。厳島神社の神の山もテレビで初めて映したのではないですか?大変面白いです。

もっと身近なことにも、古代のビジョンは生きています。最近ブログで「おにぎり」と「おむすび」の形論争を見かけます。「おむすび」は三角で、おにぎりは自由なのか? その通りです。「おむすび」は三角なのです。「おむすび」を正しく書くと「お産霊」です。メソポタミアのナツメヤシと同じく、お米は日本人の「生命の樹」なのです。米と言う漢字は ナツメヤシの八弁の花から来ています。キリスト教の「神」を現わす表象と同じです。また、神にささげるごはんは「山盛り」にします。

スペイン、ポルトガルの「Semi esfe'ricos setting」に重要な変化が起こるのは17世紀末になります。
二つの変化です。
(1)一個の「Semi esfe'ricos setting」を複数の「Semi esfe'ricos setting」で取り巻くような石留めが現  れた。
(2)板作りのふくりんで作った爪に似たスタイルの「Semi esfe'ricos setting」が現れた。

[Semi esfe'ricos setting]の隣接ですから、石と石とはまだまだ離れています。しかし、面を宝石で舗装(paver)する美しさの始まりです。各々の[Semi esfe'ricos setting]から、裾模様が消え、半円の膨らみが低くなるのに、それほど時間はかかりませんでした。石と石を近づけるために「Gypsy Setting」の集合体になっていきます。宝石を埋め込む穴を近づけて彫り、各々の宝石を「Gypsy Setting」するとプロトタイプの[pave'setting]が出来上がります。
(2)のスタイルはふくりんに爪が付いてきた流行を取り入れたものだと思います。ただ技術的には全く違った方法が取られます。「Gypsy Setting」や「pipe setting]は二段に彫った穴に宝石を叩き込んでも、宝石の周りに十分な金属があるため、爪に似た部分を残して宝石周りの金属を削り取る方法が取られました。いわゆる、「cutdown setting]です。
(1)の場合も石と石を近づけて「Gypsy Setting」に石の周りを叩き込んだ時、円の集合体になり、その残った空間には叩かれていない金属が玉状残ります。
宝石と玉状の金属で石が留まるpave'スタイルの石留めが始まります。しかし、玉状の金属で石を留めているわけではありません。18世紀のボタンや靴飾りはペースト(ガラス)をこの方法で石留したものが数多く作られています。玉状の金属が宝石から離れて存在しているpave'スタイルは18世紀のプロトタイプの特徴です。

3月3日(土)、4日(日);伊勢丹浦和店 インプレッション初出店は食事もとれない 忙しさの中、本当にたくさんの人とお話ができ、ご好評を賜りました。地元のニーズに応えようとする浦和店のコンセプトは解かり易く楽しい仕事になりました。マーケティングにまた新しい事例が加わりました。次回はお客様のご要望によりお応えできるセレクションができそうです。4月は4/10(火)~4/16(月) 広島三越2階スタイリッシュに伺います。

「Gypsy Setting」、「Roman setting」、「Cisele’ Setting」、「pipe setting]、「Semi esfe'ricos setting」、「cutdown setting」、プロトタイプの[pave'setting]、18世紀は石留め職人の時代と評されます。バロック時代の特徴であった金属部分の工芸はそぎ落とされ、宝石がジュエリーの全面を覆います。デザインとは宝石を並べることであり、どの石留めを組み合わせるかがスタイルを決定します。バロックからロココへの「美しさ」の変化は「パヴェ留め」の完成に大きく影響します。いろいろな角度から検証されるべきでしょう。
(1) 先ずは、ヨーロッパ東西の石留め技術に大きく影響したハプスブルク家について
(2)宮廷文化の変化について
(3)ブルボン家とユグノー、そして宗教戦争について

オーストリア; ハプスブルク家が「日没なき世界帝国」の支配者になる第一歩は、1477年 マクシミリアンⅠ世のブルグント公女マリアとの婚姻によるフランドル相続です。またそのマリア以前親子四代に渡ってフランドルを支配したのは、1384年 フランドル伯領相続人マグリット・ド・マルと結婚したブルグント家当主フィリップ豪勇公そしてジャン無怖公、フィリップ善良公、シャルル突進公です。
フランドルにこだわるのにはいくつもの理由があるのですが、なによりもフランドルは当時ヨーロッパのなかでもっとも豊かな場所だったのです。毛織物の産地としてカール大帝(一世)のころよりすでに有名でした。13世紀までこの地はすでに豊かなのにかかわらず、自由でした。何故でしょう?フランス王家もここから始まります。(このこともいずれ遊牧民の宝飾品とともに話します。)フランスの干渉が始まるのは13世紀なってからです。1230年の頃、フランス国王フィリップ4世の王妃ジャンヌはフランドルを訪れました。そして迎えに出たフランドル住民の豪華な装飾品と宝石を見て、「フランドルには王妃がいっぱいいる。」と怒り、税金をかけるよう王に訴えたエピソードがギ―・ブルトンの「フランスの歴史を作った女たち」にあります。時間は王家の成り立ちまで忘れさせたのです。
ここでフランドルにこだわったのは、ジャン無怖公の1411年財産目録にDiamond four-petalled rosette を見つけたからです。さらに フィリップ善良公のcristal goblet にはThe Burgundian Point Cut が見られるからです。ダイヤモンドの初期のカットがフランドルで見られるのです。フランドル・カットではなくブルグント・カットなのは、ブルグント公がフランドルを支配していたためです。
そして、1430年には「金羊毛騎士団」がフィリップ善良公によって設立されました。これより団員の正装品として、あの有名な「金羊毛の首飾り」が作られてゆくことになります。「金羊毛騎士団」については、一説にフィリップ豪勇公時代の1396年ニコポリス十字軍を想起したもので、旧約聖書・士師記のギデオンの物語に由来すると言われています。ギデオンのように異教徒を打ち破る、と言うわけでしょうか?実際にはスルタン・バヤジッド率いるオスマン・トルコ軍にボロボロにされ、跡取り時代のジャン無怖公は捕虜にされ、候家の年間財務費以上の身代金を支払った、思い出したくもないニコポリス十字軍だと思うのですが。フィリップ善良公の思惑は「黄金に匹敵する羊毛で栄えるフランドル諸侯は団結してこの地と利益を守ろう。」だと思うのです。のちにルイ14世が参考にしたと思われるほどの「ブルゴーニュ典礼国家」のスマートなやり方だったと思います。そしてダイヤモンドは、その硬さから護符と考えられた時代から、カットにより光り輝く富の象徴になりました。

このフランドルを支配したブルグント家もシャルル突進公が、1477年男子なくして戦死することにより事実上終わります。フランドルのガンにいた后妃マーガレット・オブ・ヨークと娘のマリー・ド・ブルゴ-ニュはフランス王家による併合を避けるためマキシミリアン・フォン・ハプスブルクをマリーの夫にします。1482年、マリーは落馬により死亡(ハプスブルクと結婚した王族は何故か早く死ぬ)、1486年マキシミリアンは神聖ローマ帝国・皇帝となり、黄金のフランドルを支配します。マキシミリアンの長男フィリップは3才で金羊毛騎士、4才でブルゴ-ニュ家を継ぎ、18才でスペイン王女ファナと結婚する。フィリップの長男カールは1504年にカスティーリャ、1516年にアラゴンを相続してスペイン王となり、1519年神聖ローマ帝国・皇帝となる。ここにカール五世は 、新大陸、フィリピン、ナポリ王国、シチリア王国、サルデーニャ王国、ミラノ公国、スペイン王国、ネーデルランド、神聖ローマ帝国の王となります。まさに、「日没なき世界帝国の王」です。金銀、宝石を見れば、世界規模で産地から加工、消費地まで帝国内にあります。もちろん、スペインが運ぶ宝石はフランドルに運ばれます。ポルトガル王がインドの職人に作らせたり、職人を呼び寄せることにより始まった、パベ系譜の技術もフランドルに持ち込まれ、ここからイギリス、フランスに広がります。

もう十数年が立ちますが、今でも私の記憶に強く刻まれた景色があります。当時、鐘紡や地方の業者さんの依頼でアンティークジュエリーを探しにヨーロッパ各地によく行っていました。かなりハードなスケジュールで疲れ果て、最後はベルギーのブリュッセルで心身を休めるのが何よりの楽しみでした。美味しい料理、優しい人たち、美しい街並み、街にあふれるチョコレート屋、セレクトのいい本屋 、ブリュッセルは心休まる街です。ある時、ブルージュでアンティーク市があるとの情報で出かけましたが、博物館の展示のような中世の織物や宗教関連のものが並んでいました。ちょつとがつかりして、以前より仕事外で行ってみたかったガン(英、独;ゲント)に行きました。そして、あの景色のなかに立っていたのです。
私は夕暮れの聖ミハエル橋の上に立ちつくし、言葉を失っていました。レイエ川の両岸に立ち並ぶ中世のギルドハウス、振り返れば、カール五世の洗礼式を行った聖バーフ大聖堂につづく石畳。旧魚市場の向こうには、数々の歴史が繰り広げられたフランドル伯の居城。夕暮れの静かなレイエ川とギルドハウスは何百年変わらない眠りについたばかりのようです。つい今しがたまで多くの舟が行きかい、荷揚げする中世の人々の罵声が飛び交い、商人が忙しく走る、そんな幻を見てしまいます。フランドルの繁栄と北方ルネサンスの美しい「花の都」を実感したい方は、どうぞこの橋の上にたって下さい。

「日没なき世界帝国の王」といってもカール五世は、16世紀半ばルターから始まった宗教改革への対応に生涯追われました。しかし、ジュエリーの歴史には、反新教の模索の中からバロックスタイルが生まれます。カトリック教国スペイン、ポルトガルでは、西アジアからの表象「生命の樹」をカトリック教義の表象へ変容していきます。 また、カール五世の生まれ育ったフランドルとスペイン、ポルトガルでのこの作業には思いがけぬ事が起こりました。「スペイン、ポルトガルに1600年頃に現れた石留め方法は Semi esfe'ricos setting(葡・西)いわゆる半球留めです。」簡単に「半球留め」と書きましたが、すべての形には意味がある時代に「半球留めが現れたました。」は我ながらひどい話です。その意味の説明も推察もしていません。すべてはカトリック教義の表象作業から始まります。また、一番初めの「パヴェ留め」もこの一連の作業工程に現れます。複雑な話にはなりますが、アンティークジュエリーがお好きな方は、お手持ちのジュエリーについての話かもしれません。すくなくても、フレミッシュ、ノルマンディー、ポルトガル、エストニアのアンティークジュエリーを私からもとめられた方は多数いらっしゃるはずです。一緒にお考えください。

半球の頂点に宝石を埋め込んだ形は何かに似ていませんか?挿絵画家の安里英晴氏がいろいろな門に「乳金具」を見つけてブログに書いています。なんでも法隆寺の「乳金具」は良いのだそうです。何故、お寺や武家屋敷などの門に乳金具」「が付いているのでしょうか?私の推理が正しければ、ポルトガルの「半球留め」と日本の「乳金具」は同じ意味を持っています。 

アンティークジュエリーを探してヨーロッパを廻っていたとき、ドーム型をしたシルバーの製品に良く出会いました。エストニアの小さなドームをチェーンでつなげた愛らしいブローチ、ドイツやベルギーからノルマンディー地方のcroix bosse(5個のドームがつくるクロス)、北フランスの同じ形で5個のエナメルドームを石留めしたクロスやエナメルドームをデザインしたブレッソンエナメル、ポルトガルのSemi esfe'ricosやメタルだけのルプセドーム。これらを意味も考えずに買い集めました。なぜが愛らしく心惹かれたのです。バロック期に貴族階級に現れ、18世紀には豊かになり始めた民衆のジュエリーになったこれらのドーム型ジュエリーはその形に根強い民衆の思いを感じます。その思いとは何だったのでしょう?
ハプスブルク家の支配により、カトリックの中心国となったスペイン、ネーデルランドそしてフランスやイギリスまでその同じ思いを感じるのです。
ここから私の推理が始まります。
中世までのゲルマン諸国においては、キリスト教はマリア教といってもよいほどにキリストよりもマリアが信仰の対象となっていました。1128年に生まれたポルトガルの騎士団;アヴィシュ騎士団もエヴォラのサンタ・マリア修道会とも呼ばれています。そして彼らが使用したクロスは縦横同じ長さの十字です。この十字の出現はBC5000年代ザグロス山脈からメソポタミア平原北縁にひろがったサマラ期文化の彩色土器です。そうです、あの大洪水の後です。水を現わすジグザグ文様に囲まれて土器の中央に描かれています。私は古代人特有の立方体の二次元的表現だと思います。正面から見れば二次元の四角、それが4面で方舟なのです。サマラ期の土器には女神も描かれているのが具象文様の特徴です。ついでながら、凱旋門や鳥居もこの二次元的立方体の表象です。方舟から望むピラミット(アララト山)のビジョンはパリの凱旋門から望むピラミットであり、大鳥居から望む三輪山なのです。厳島神社の方舟は海から陸に上がって霊山を望みます。人類が神を感じた瞬間です。
ヨーロッパの父と呼ばれる聖ベネディクトのメダイにもこの十字がつかわれています。このメダイには厳島神社同様、カラスも登場しています。ここで表象されているのは、貼り付けの十字架ではなく方舟です。
中世ヨーロッパのキリスト教とは、神とマリアによって方舟と女神を表象しているように思えるのです。政治的に王がキリスト教に帰依しても、国教となっても民衆は古くからの女神をマリアの名のもとに大切に守っていたのでしょう。スペイン・モンセラートの「黒いマリア聖母子像」などは、711年に西ゴートを滅ぼしてイベリア半島に進行してきたイスラムとキリスト勢力の拮抗する地にありながら、そのどちらにも破壊されず、そのどちらでもない、もっと根源的な母子像を想起させます。ギリシャ・ミケーネ文明期の「鳥の母子像」に通じる意味があるのでしょう。マリア・ギンブタスの資料によれば新石器時代後期には「蛇の母子像」「鳥の母子像」が見つかっています。「マリア聖母子像」の一万年以前から母子像はあり、石や骨の女性像(ヴィーナス像)は旧石器時代にさかのぼります。そして旧石器時代の遺跡や氷河期狩猟採集民のヴィーナス像がみつかる場所は篠田謙一氏が「日本人になった祖先たち」のなかで図解する、ヨーロッパにおけるミトコンドリアDNAハプログループVの広がりと一致します。氷河期狩猟採集民の文化です。ヨーロッパとアフリカも地続きだったので、両者の区別もなく、黒白も意味をなしてはいなかったはずです。言語学からみれば農耕牧畜が始まる以前の氷河期狩猟採集民の言語として、デンマークの言語学者ホルガー・ペーゼルセンが提唱した「ノストラ語」の地域が重なります。インドーヨーロッパ語族、セム語族、ウラル語族、アルタイ語族、エスキモー=アリュート語族です。
アルタイ語族には日本語、韓国語、モンゴル語、トルコ語、チュルク語、シベリア・中国のトゥングース語、アイヌ語が含まれています。氷河期狩猟採集民の文化ベルトはアフリカ・ポルトガルからシベリア・サハリンに至ります。
私は多くの資料を見てきましたが、この広がりを示す、造形的に似ている二つの遺物があります。
一つはエルミタージュ博物館にあるBC12,000頃のシベリアで見つかった造形物です。上半身は水鳥、ヘビ、男根を感じさせ、下半身は水鳥、女性を感じさせます。埋葬された小児の胸の上置かれていました。水鳥とヘビは新石器時代後期には精霊でしたので、精霊と同時に表象されたヴィーナスは生と死と再生が混沌とした思いとなったものだと感じます。
もう一つはスペイン・マドリード国立考古学博物館にあるBC1,500~900年の青銅製の剣のつかです。同じようなフォルムを持ちながらこちらは完全にヴィーナスを打ち出しの装飾で表象しています。
この二つのヴィーナスはキュクラデス諸島のBC3,000頃のヴィーナス石偶ともフォルムに共通点があるようです。また、青銅製の剣のつかはヴィーナスのフォルムをしたスキタイの剣と同じ発想が見られます。日本でも剣が神器となる意味は同じです。
そして、青銅製の剣のつかに表象されたヴィーナスの胸はまさにSemi esfe'ricos settingと同じ造形で表象されています。新石器時代の生と死と再生の女神はSemi esfe'ricos settingと同じ造形で表象されるのです。
日本の「乳金具」もまた基本的にはスペインやシベリアと同じ女神の表象です。ただ方舟を表象する、凱旋門や鳥居と同じ意味の門にあることが示すように、日本の「乳金具」は南から来た新しい女神と習合しています。

今年のNHKはおもしろい!以前にも同じ言葉を書きました。何が変わったのか、おもしろい!2012年4月25日ヒストリア「厳島神社 ふしぎの島の物語」、不思議なことは何もないのですが、丁寧に事実を積み上げ、下手な操作なくそのまま番組にしている。分かりやすく、視点が論理的。今回の放映で「三つの池」をパワースポット的なおちゃらけでなく、キーワードとして取り上げたのも的を得ていた。海水入ってくる真水の池、つまり黒海の大洪水を毎日再現する場所でもあったわけです。黒海の大洪水とは氷河の溶けた真水の黒海に地中海の海水が流れ込んだ出来事だったのです。今でも黒海の深部は真水であることが知られています。そしてその池が三つあるのです。シベリアの狩猟採集民が日本に持ち込んだ精霊は三つ、水鳥、ヘビ、熊です。そして神社ができたころの精霊はメソポタミアで変容し、熊がライオン(獅子)に代わって一つになった合成獣で女神の聖獣です。合成獣も拝殿前にいます。女神イナンナの影がちらちらしますが、厳島神社の紋章が三人の女神であるなら、その表象するものは「三つの池」となるようです。さらにピラミット(弥山)の上には巨石の遺跡があります。そもそも巨石文化はSemi esfe'ricos、ヴィーナス石偶、ミトコンドリアDNAハプログループ、つまり旧石器時代の遺跡と重なる場所でBC45,000頃から広がり味めています。黒海の大洪水より古い、氷河期狩猟採集民の文化が農耕牧畜の文化に変わってゆく時期です。この母なる女神の文化は大洪水後、鳥の女神が変容・習合した女神イナンナと複雑にからみながら数多くの女神を産んでいきます。豊穣・メソポタミア・ナツメヤシの女神であるイナンナが、エンキに代わり方舟の主となるのはメソポタミア神話でも有名な話です。
女神イナンナは「おっぱい」で表象されませんので、Semi esfe'ricos settingや「乳金具」は狩猟採集民のヴィーナスがそのまま表象された古い母なる女神なのです。厳島にはこの「母なる女神」がいて、方舟の女神が「天の鳥船」でやってきて、さらに清盛によって、観音様や弁天様まで来たのです、まさに「女神の島」です。観音様や弁天様は男権的な仏教で「マリア」と同じ役割を持っています。狩猟採集民のヴィーナスとは少し違い「鳥の女神」は明確に「出産の女神」なので、厳島神社に子宝を祈った平清盛はこのことをよく知っていたのだと思います。ちなみに、「もみじ」は「赤い逆さ鳥」、出産・子宝を表象します。もみじ饅頭の葉脈は女神イナンナの表象になっています。厳島神社には「モミジ谷」や「もみじまんじゅう」があるのです。

旧石器時代の狩猟採集民の文化はBC12,000頃アメリカ大陸に渡って行った人たちの化でもあり、円とドームの表象や鳥、ヘビ、熊の精霊もアメリカ大陸の基層文化に刷り込まれています。旧石器時代の狩猟採集民の文化は世界中の農耕牧畜の文化の基層をなしているのです。あらゆる宗教建築が円やドームの構造をもつのは、旧石器時代の狩猟採集民の文化を取り入れなければ原初人類に芽生えた観念世界を取り込むことができないからにほかありません。
言葉は偽りの観念をいかようにも伝えます。形あるものと装飾は黙して語る。私の推理は一つの解釈です。一つだけ真理に近い言葉としていえるのは、「すべての解釈はその時間軸の根源から解釈しなくてはいけない。」とゆうことです。歴史の一つの時代や一つの場所だけで解釈しようとすれば、いかような勝手な解釈も本当のことの様に見せることが出来ます。時間軸の根源から矛盾しない流れとして説明できないことは、私は信じません。

Semi esfe'ricos settingはローズカット・ダイヤモンド(Gothic Roses & Baroque Rose Cuts)とともにまるで新しいことのようにバロック期に現れました。(実はルネッサンス期のCu'spide(伊)settingの影響を受けています。)ポルトガル王の親族が総長を務めるアヴィシュ騎士団の記章として表舞台に登場します。イベリア半島がレコンキスタの戦いのなか、1128年テンプル騎士団がポルトガルでの活動をローマ教会とポルトガル王太后テレサ・デ・レオンによって許可されます。1162年にはアヴィシュ城を攻略して、ヴネディクト会の戒律を採用し「聖ベントのアヴィシュ騎士団」と呼ばれるようになります。ヨーロッパの父と呼ばれる聖ベネディクトのメダイと同じ十字が紋章につかわれる理由がここにあります。聖ベネディクトは修道会の生活により、キリスト以前を遡り 「神」に向き合い続けた人です。これ以上神学に触れ始めるとますます本題から離れますので、聖ベネディクトは「神」を人類の歴史のなかに探し続けた人であったことを確認したいと思います。Semi esfe'ricos settingはポルトガル王の親族が総長を務めるアヴィシュ騎士団の記章の中で見事に完成します。当時の最高の技術と素材がつぎ込まれています。National Museum of Ancient Art,Lisbonには17世紀半ばの, Insignia of Military of Avis(アヴィシュ騎士団の騎士団章)がコレクションされています。ジュエリーとしても見事な作品です。デザインはシンプルに王冠を戴いた円です。円は二重で中の円にはアヴィシュ騎士団の記章が赤いエナメルで描かれ、パイプ留めされたローズカット・ダイヤモンド(Gothic Roses & Baroque Rose Cuts)がそれを取り巻きます。聖ベネディクトのメダイと同じ意匠です。聖ベネディクトの十字は三角がアンフ(命)の形をしてますが、赤いエナメルの四隅はフランス王家の「ユリの紋章」?やメソポタミアの「三葉」に似ていますが、むしろ人型に似ています。人型はアンフ(命)と同じ意味です。結局「ユリの紋章」、「三葉」、アンフ(命)、人型は同じ表象なのです。方舟で守られた「生命」。聖ベネディクトのメダイの効用に「嵐の時、陸上や海上での保護。」、「出産を控えた母親たちに安産の助け。」、「臨終における助け。」があることの意味が繋がります。戦場での方舟も「赤十字」で表象されます。生と死はともに分け難く、「生命」を産む女神のまつりごとにその意味を付与します。聖ベネディクトのメダイの円が青いのも、青い円が命の宿るところを現わすからです。女神はトルコで生まれたとされたため、古来「トルコ石」とは「青い石」の総称でした。マリアを現わす色も青です。

さて、もんだいは二重円の外側です。三重に彫られた裾模様を持つ、美しいSemi esfe'ricos settingのパーツ八個が円状に並びます。米印は八弁の花、すなわちナツメヤシの花であり、メソポタミア・円筒印章によくつかわれた女神イナンナの表象です。旧石器時代のビーナスの表象がナツメヤシの女神の表象をつくってるのです。メソポタミアで生まれたナツメヤシの女神と旧石器時代のビーナスが融合しています。ここで日本の「乳金具」のことを思い出して下さい。「乳金具」が女神イナンナの神殿を表象する「門」にあることが示すように、日本の「乳金具」は女神イナンナと共存しているのです。イベリア半島と日本で同じことが起こっています。旧石器時代の狩猟採集民のビーナスが時間の経過とともに農耕牧畜の女神と融合したことを両者の表象が教えてくれています。
ナツメヤシの女神の表象は何千年後、マリアの表象にもつかわれました。だからこの場合、旧石器時代のビーナスとマリアの融合とも考えられるわけですが、キリスト教以前にナツメヤシの女神と旧石器時代のビーナスの融合が起こった証拠はスペインにあります。スペインの南東部エルチェの街にある「椰子園」と「神秘劇」です。 
ナツメヤシをこの地に持ち込んだのはカルタゴ人でBC5世紀のことのようです。カルタゴはフェニキアの植民都市ですので、フェニキアが植民してきたBC500年頃から西アジアの文化はこの地に持ち込まれたと推測できます。事実、出土した女神像はチャタル・フュユクの女神像に、メソポタミアとくにアッカド以降の意匠が混ざり合った姿をしています。女神の表象の資料はフェニキアよりも、それに先立つヒッタイトに多く残されていますので参考になります。ヤジルカヤのレリーフ岩絵はヒッタイトの時代(BC1700~BC1200頃)の女神、そして台頭してきた男神のことが、持ち物や表象を通じてよく理解できる資料です。「ライフ・人類百万年」にはさらにおもしろいものが見つかりました。ヒッタイト以前、小アジアにBC2300~BC2100年頃繁栄していた都市アラジャ・ヒュユクの王墓から出土した青銅製円盤の遺品です。円の中には女神イナンナの四角に囲まれた縦横連続表象(福島原発建屋内の鉄骨構造と同じ)、円の上には3羽の鳥の母子像、ここまででメソポタミアの女神イナンナが出産の女神と習合して、方舟に乗った表象で小アジアまで浸透していることがわかるのです。問題はこの円盤に3個の丸に十字の表象、そうです聖ベネディクトのメダイと同じです、がぶら下がっているのです。聖ベネディクトより2500年も以前のことです。これは大変なことです。この縦横同じ長さの十字がキリスト教のものでないことはこの遺物だけで、実証できます。そしてさらに、とんでもない推測ができるのです。方舟の表象と推理していた十字に、とんでもないもう一つの解釈が浮上します。メダイに記された文字やメダイの効用から、聖ベネディクトもこの都市アラジャ・ヒュユクの表象は知っていたと思われます。聖ベネディクトも2つの推察をして、両方の効用を考えていたようです。このことについては、次の機会にします。エルチェから離れ過ぎました。今度「聖ベネディクトの悩み」と題してとんでもない推察を試みます。
ここでしたいのは、カルタゴ人がBC5世紀にナツメヤシをこの地に持ち込んだときよりはるか以前に、メソポタミアの女神イナンナはフェニキアやカルタゴにナツメヤシの女神として浸透していたことの確認です。つまり、旧石器時代のビーナスとナツメヤシの女神の融合は紀元前にあったことの確認です。スペインでのこの確認はエルチェの「神秘劇」からも出来ます。
エルチェの「神秘劇」とはヨーロッパの中世(15世紀)には多くのカトリック教会で演じられていた「聖母マリア信仰」に由来する宗教劇です。1545年~1563年に開かれたトリエント公会議によりエルチェの「神秘劇」を残し禁止されてしまいます。内容を知れば納得できます。死の床にあるマリアに、空から降りてきた天使が「白いヤシの葉」を渡し、マリアは昇天してゆくのです。まるで天にはナツメヤシの女神がいて、マリアは昇天することにより、ナツメヤシの女神と習合するようなのです。カルタゴ人によってBC5世紀にこの地に持ち込まれ、イスラムの灌漑システムにより20万本になった椰子園は、レコンキスタによりキリスト教国になっても、この街の生命線となる産業になっていたはずです。教皇パウルス三世もこの街にかぎり、ナツメヤシの女神の存在を認めざるを得なかったようです。そして何故?「白いヤシの葉」なのでしょう。「ヤシの葉」ではいけないのでしょうか?ここには重大なな事実があります。「白いヤシの葉」までは認めても「黒いいヤシの葉」を隠ぺいしたい画策が読み取れます。「白いヤシの葉」と「白」を強調するあまり、逆に「黒」の存在を感じさせるのです。「黒」とはナツメヤシの女神とはるか昔に習合していたラ・モレネータ「黒い女の子」です。このことも「聖ベネディクトの悩み」でまとめたいとおもいます。 

そして、円の上にはギリシャ十字を頂いた王冠がのっています。変形ローズカット・ダイヤモンド(Gothic Roses & Baroque Rose Cuts)を「Cisele’ Setting」で植物文様に留めています。ダイヤモンドより、むしろレリーフの深い金属の彫りが目立つバロック期らしい見事な王冠です。これに続くロココ期の、金属を最大限少なくした、宝石中心で女性らしい「Cisele’ Setting」とは正反対の石留めです。裏面は全面、浅いレリーフの花模様に彫られていますが、作られた時代を考えると「Champleve’enamel」が施されていたはずです。彫りの縁は繊細に残され、すべてがインタリオに彫られているので間違いありません。八弁の花の意匠はマルタ騎士団(The order of malta)の記章と同じものです。
[pave'setting]、の登場がこの記章や同じスタイルの「boite](エナメル製肖像画付きロケット)の歴史に見ることができるのは、17・18世紀の王家や貴族の間で騎士団のバッジまたはプレゼント用として流行したためです。このスタイルのジュエリーはルイ14世のフランスから始まったと言われていますが、実際はウインザー城やヴィクトリア&アルバート博物館などに所蔵されている「マルタ騎士団(The order of malta)の記章」がルーツだと思います。 このバッジは両面エナメルで装飾されています。花々に囲まれたエナメル画は、異端のヨハネ派が堂々と暗示されています。ヨハネ中心のマリア教?
表;ブルーの内円の中には白いマルチーズクロス、それを取り巻く八弁の花弁と花模様が外円をつくり、花弁の中にはチューリップ、バラ、アネモネが具象的に描かれている。ペンダント金具と二重円は三葉でつながる。
裏;内円の中には聖母子、それを取り巻くSt.John,St.Joachim,St.Anne.外円は表と同じ。
(ウインザー城所蔵;マルタ騎士団(The order of malta)の記章)
このウインザー城所蔵のバッジが17世紀中頃としても、同様のバッジはもう少し早くから作られていたと思います。。National Museum of Ancient Art,Lisbonの, Insignia of Military of Avis(アヴィシュ騎士団の騎士団章)は構図にマルタ騎士団(The order of malta)の記章を明らかに取り入れています。八弁の花弁に描かれたチューリップ、バラ、アネモネの花模様は17世紀中頃から抽象的な花模様に変化し、18世紀初頭にブラジルでダイヤモンド鉱山が見つかり、ジュエリーが宝石中心のスタイルになるまで流行します。ルイ14世の 「boite](エナメル製肖像画付きロケット)は アヴィシュ騎士団の騎士団章の表とマルタ騎士団(The order of malta)の記章を裏に構成されています。当然花模様は具象から抽象的になっています。 ルイ14世の 「boite]は マルタ騎士団(The order of malta)の記章、アヴィシュ騎士団の騎士団章の後から作られたことは明らかです。

もうひとつ、なんと!アヴィシュ騎士団;騎士団章の裏に描かれた花模様はチューダーローズに似たバラなのです。
当時スペインとポルトガルは合併して(1580年~1640年)エリザベス女王以来のイギリスとは激しく対立していた時代です。
アルバ・マキシムは白のオールドローズでヨーク家の標章、ガリカ・オフィキナリスは赤のオールドローズでランカスター家の標章です。ガリカ・ローズにアルバ・ローズを合わせると、ヘンリー・テューダーとエリザベス・オブ・ヨークの結婚から始まるテューダー朝の紋章になります。ヘンリー・テューダーはヘンリー七世となります。
そして、Walker Art Gallery(Liverpool)所蔵のエリザベス女王のポートレイト左上にはアヴィシュ騎士団の騎士団章の裏と全く同じ意匠の絵が描かれています。チューダーローズの上に王冠と十字架です。細かく見ると十字架の種類やバラ?・・・・・・?
どうやら私は間違っていたようです。同じように具象から抽象に向かう花の表現に惑わされました。オールドローズの標章であるチューダーローズは花弁がアヴィシュ騎士団の騎士団章の裏に彫られた花ほど多くはありません。内向きに多くの花弁が密集する花、そうです、フランスなどにも十字軍遠征を通じて1580年頃から栽培が始まったラナンキュラスの様です。チューリップ、バラ、アネモネそしてラナンキュラスはみな十字軍の遠征がヨーロッパにもたらした花なのです。(このことは、12,900年前の北アメリカを襲った隕石が原因で、気象学や植物系の分布変化から説明できます。)
しかし、アヴィシュ騎士団;騎士団章はエリザベス女王のポートレイトと マルタ騎士団(The order of malta)の記章が合わさった意匠であることは確かです。構図は拝借しても花の種類は変えていました。
1640年、ポルトガルに王位がもどった後 1654年対英友好同盟条約が調印されています。この騎士団章が作られたのは、ダイヤモンドのローズカット(Gothic Roses & Baroque Rose Cuts)の古さ、そして具象的な花も考慮に入れるとこの調印の前後だと推察できます。
同じようなデザインで石留めの変化を比較する為に、もうひとつウインザー城所蔵の 「boite](エナメル製肖像画付きロケット)の資料があります。イギリス・ウィリアム三世の1690年頃のものです。

(1)1650's(ポルトガル)アヴィシュ騎士団の騎士団章,
(2)1680's(フランス)ルイ14世の 「boite](エナメル製肖像画付きロケット),
(3)1690's(イギリス)ウィリアム三世の「boite](エナメル製肖像画付きロケット)。

そして大西洋沿岸を通る電車通りの、大西洋を見渡す高台にこじんまりとたたずむ
National Museum of Ancient Art,Lisbon所蔵
(4)1740's50's(ポルトガル)マルタ騎士団・騎士団章 私が自分で確認した初めての「Pave' setting」)です。

さらに、イギリス・Queen's Gallery at Buckingham所蔵
(5)1750's(イギリス)ジョージ三世のガーター騎士団・騎士団章, 1765年、スイス生まれのJohn Duvalによって、乗馬したSt.georgの全身にみごとな「Pave' setting」)、が施されています。「Pave' setting」)の完成形です。

ここで一言、都市アラジャ・ヒュユクの王墓から出土した青銅製円盤の遺品,聖ベネディクトのメダイ,ガーター騎士団・騎士団章は同じ表象であることを付け加えておきます。

それでは詳しく、1650's~1750'sの石留めを技術面からみてみましょう。上記のように同じスタイルのジュエリーを比較することは。[pave'setting」に至る技術的な流れを少しでも正確に見ることができると思います。

(1)については、「Semi esfe'ricos setting」と「Cisele’ Setting」が使われていることを、すでに詳しく前述しています。付け加えるとすると、(Gothic Roses & Baroque Rose Cuts)の小さい初期のローズカットダイヤモンドを使うことによって、半円形が豊かなな乳の形になっていることです。イヌイットの氷の家そして南アフリカのズールー族の家の形です。この造形を使うコンセプトに忠実な台座となっています。しかし、技術面から観ると、決してやさしい石留めではありません。コンセプトの形を作るため、かなり無理な石留めをしているのです。私のコレクションの「Semi esfe'ricos setting」の作品には一か所、石が外れたところがあります。そして(2)ルイ14世の「boite]のダイヤモンドも外されています。比べてみると、台座は同じように作られています。半円形は空洞で1mm強の板状に作られているのです。「Gypsy Setting」は金属の塊に穴を掘って石を埋めるのですから、それほど難しくありません。ポイントは穴の側面を出来るだけ石の径に合わせて垂直に彫ることです。石の径に合わせて垂直であれば、ちょっとした穴上部の変形で石は留まります。「Semi esfe'ricos setting」もそのことは同じなのですが、板状ですので、底がありません。つまり、1mm強の板の側面に石の径に合わせた垂直の穴と石を引掛ける底を同時に彫らなければなりません。私の教室で「二段彫り」と呼んでいるテクニックです。丸い穴ならば大きさの違うドリルで二回目を貫通させなければ作れます。しかし完全な円以外は手彫りとなります。ロンドンでのボブの授業で、あらゆる石留めの基礎として、何度も何度もくり返し叩き込まれた技術です。あらゆる形の「二段彫り」を洋彫りタガネだけで完成するのです。Semi esfe'ricos setting」の板の下は空洞で、下にゆくほど広がっているのです。少しでも二段に引っかからないと石は落ちてしまいます。「二段彫り」はパイプに彫れば落ちなくてやさしくなりますが、「Semi esfe'ricos」は難しい技術です。パイプは側面が続きますが、「Semi esfe'ricos」は板厚の間を二段 にして、石をガードル(石側面)で引掛け、側面のトップは、石を上から留めるため、ガードルより高くしなければいけません。1mm強の板側面にこの加工をするには0.1~0.2mmの誤差が命取りになります。17世紀中頃にこの技術があったのです。またこの「二段彫り」は「Pave' setting」)を完成する上でかがせない技術となります。0.1~0.2mmを正確に彫りあげるには「洋彫りタガネ」の発達があったことが考えられます。このことについては「装飾文化史(2)バロックを彫りながら」を参考にしてください。 

(2)の時代と場所(フランス)でダイヤモンドはルイ十四世の富と権力の象徴として「boite](ルイ十四世エナメル製肖像画付きロケット)に使われたようです。、「Semi esfe'ricos setting」のみ(一部小さい石留めで裾模様がなく、空洞でもなく「Gypsy Setting」になっている。)で仕上げられた石留めも、この石留めのコンセプトは感じられません。ローズカット・ダイヤモンドも台座に比して大きいサイズのものが使われ、半円形の豊かなな乳の形は失はれています。「Semi esfe'ricos setting」は、この造形を使うコンセプトを失い、荘厳さを表現するバロック期の流行スタイルになったようです。裾模様もやたら彫りが深く、女神のやさしさは消えて、力強い男性的なものに変わっています。「Semi esfe'ricos setting」の余白を埋める表現も、「Cisele’ Setting」ではなく「Gypsy Setting」になっているなど、概して、ジュエリー職人の表現力は(1)より粗野に感じます。ただ、同時代のスペインの「boite]に感じるルネッサンスの匂いはなく、バロック期の石留めスタイルになっています。

(3)の石留めは多くの特徴を持っています。「Semi esfe'ricos setting」をルネサンス期のCu'spide(伊)settingに「pipe setting]を組み合わせた技術的なスタイルに仕上げています。唯一、中央の大きなローズカットダイヤモンド(他もEighteen-facet Rose-cut)だけは「Semi esfe'ricos setting」の彫りを裾模様に取り入れているのですが、完成度はこれだけが低いものになっています。これを完成させた職人は素晴らしい技術を持ちながら「Semi esfe'ricos setting」は、ほとんどやってなかったようです。ウィリアム三世はオランダ総監からイギリス王になったオラニエ家のウイレム三世ですから、当時一番進んだ職人がいたアムステルダムで作ればこのような特徴はなかったと思います。この作品はルネサンスの素晴らしい伝統がまだ残っていたイギリスで作られたものだと思います。ただ「Eighteen-facet Rose-cut」はアムステルダムで始まったダイヤモンドのカットだと言われています。(1)から半世紀でダイヤモンドのカットは大きく進歩しています。
ちなみに、「Semi esfe'ricos setting」コレクションの写真(1)と(2)に映っている石は水昌で、「Twennty-four-facet Full Rose Cut]されています。石のクラウン(ガードルより上部)も高く1750年頃の作品だと推察できます「cutdown setting]は当時のフランスからネーデルランドの特徴があり、アムステルダムあたりで作られたようです。

(4)で「Pave' setting」)がいよいよ登場するのですが、この間18世紀前半に何が起こったのか?そして私が思う「Pave' setting」)の定義について話を進めます。周知のこととしては、18世紀に入りブラジルで金鉱脈とダイヤモンド鉱山が発見され、ヨーロッパに大量に入って来ました。しかし、石留めにとってもっと重要だったのはダイヤモンドの研磨技術が飛躍的に発達したことでした。「Old European Cut」、とくにこの時代すぐれた職人のいたイギリスで研摩された場合は「Old English Cut」、は現代の「Brilliant Cut」に近い形になってきました。Cleaving,Sawing(原石を割ったり、切ったりすること)の発達は原石の研磨時における無駄を少なくし、「Embellishing Diamonds」と呼ばれる小さなダイヤモンドの品質をよくしました。とくに「Old rounded English Star Cut」は小さくて丸く、十分な輝きを持ったカットダイヤモンドになりました。「Pave' setting」)の登場にこの小さなダイヤモンドは決定的な役割を果たします。、「Embellishing Diamonds」とは「センター石周りの空間を埋める小さなダイヤモンド」くらいの意味ですが、騎士団章では大きな役割が待っていました。それはイニシャルや真円など記章の持つグラフィックな表現には欠くことの出来ないものだったのです。
たとえば、ダイヤモンドを並べてイニシャルを描く場合、穴と穴を接近させて前述の「二段彫り」を正確におこないます。そしてこの時代までの方法では、タガネを使って石の周りの金属を石の上に少し被せるように叩き込んでいきます。このままでは連続した「Gypsy Setting」になりますが、そのあとで、爪や玉になる部分を残し石の周りの金属を削り落していきます。18世紀前半に流行した「cutdown setting]です。ペースト(ガラス)を石留めする場合は、石の周りを被せて残った金属を玉状にします。プロトタイプの「Pave' setting」)です。
しかし上記の方法では画素数の低い直線表現になります。どうしても、きれいで正確なな直線を表現する為に考え出された方法とは、「二段彫り」の後で、金属のエッジに一本の溝を掘ることでした。この溝の中の金属をプロトタイプの「Pave' setting」)にするか溝に向かって「cutdown setting]すると、きれいで正確な直線を表現することが出来ました。小さくて繊細なイニシャルでは、小さくて丸いダイヤモンドを互いに接っして「二段彫り」をし、穴と穴に接線を引くように線彫りすれば最高にきれいでなダイヤモンドの直線表現になります。
しかし、ここで問題になったのは、石の上に被せる金属がほとんどなくなることでした。そして、この解決方法が、私の考える「Pave' setting」)の定義となります。

「Raising]と呼ばれるテクニックが「Pave' setting」)の定義になります。Dotter(Half round)で石を留める金属を掘り起こすのです。たとえば、粘土にスコップをグサッと差し込んで前に押すと押された粘土は前方にもちあがります。これと同じことを金属でおこなうのです。「二段彫り」した穴にダイヤモンドを入れて接線を掘る前に「Raising]をします。接線を掘る前なので穴の周りにはまだ金属が十分に残っているわけです。接線の外側から「Raising]をして、接線の内側に金属を持ち上げておきます。こうすることにより、接線を掘った時に石を留める金属を線彫りの内側に残せるのです。後は余分な金属を「spit stick graver]ではじき飛ばして、爪状になった金属を石に被せるように玉状にして完成です。この「Raising]の利点はもう一つあります。石と同じ径で垂直に掘られた穴は、穴の上部のほんのちょつとした変形で石を留めてしまうのです。つまり「Raising]ですでに石は留まってしまい、石を留めている玉は飾りの様なもので、玉が取れても石が落ちることはありません。ですから、最小の玉と宝石だけで表面を完成することが出来るのです。
現在多く行われている、いわゆる「Pave' setting」)は爪状にした金属を掘り出した後で石を入れて、爪状にした金属で石を留めています。これは、見かけは同じでも、厳密に言えば「nail setting]と呼ばれる爪留で「pave'setting]ではありません。玉状の爪が取れたり、ゆるむと石は外れてしまいます。
ネットに公開されている「Pave' setting」)の画像ではルイヴィトンのハイ・ジュエリー製作で唯一、ちゃんとした「Pave' setting」)が見られます。確かめてください。

(5)はセンターの乗馬したSt.georgを取り巻く八つの花と葉、そしてフローラルなトップを透かし寄せで作った、優雅な騎士団章です。(4)ではきれいで正確な直線を表現をする為に「Raising]が考え出されたことを説明しました。(5)では、「Pave' setting」)の平面表現に「Raising]が使われます。八つの花はそれぞれ、大きなセンター石と十個の取り巻き石で構成されています。花の外回りは一空間三個の玉を持つ「cutdown setting]に仕上げ、内側の三角空間も一空間三個の玉になっています。花のクラスター(かたまり)には石と玉しか見えず、内側をタガネで叩いた金属の形跡はありません。この小さな三角空間に三個の玉を作り、石に被せる金属の分量は、「Raising]をして周りの金属を集めてくるしかありません。
「Pave' setting」)つまり「Raising]が小さなダイヤモンドに使われ始めた1750年前後の石留めは、石留めがジュエリーの表現を決定してしまうことを職人たちがよく理解していた時代だと思います。1750~60年代のロマノフ王朝のジュエリー「Cascade」滝、「Fontaine」噴水、「Grand Bouquet」大きな花束(Fonds diamantaire pre'sente au kremlin de Moscou所蔵)、にはこのことがよく現れています。例えば、水の流れに注目すれば、噴水の吹き出し口では小さなダイヤモンドを「Pave' setting」)にして細く速い流れを表現し、上に上がった水はやや大きな石を「cutdown setting」にして、緩やかな水を表現、落ち始める水にはカーブの外側をプロトタイプの「Pave' setting」)と線爪を蝋付して「nail setting]をして、なんと、水滴まで表現して、「Pave' setting」)で終わっています。 

今年、何度同じことを言わせられるのか!今年のNHKはおもしろい!2012年7月8日「知られざる大英博物館(3)・日本巨大古墳の謎」。例によって謎はないのですが、九州・装飾古墳も含めて、古墳は非公開扱いではなかったのですか?今回のポイントは、卑弥呼から聖徳太子、古代神道から仏教、前方後円墳から横穴式、でした。よくここまで放映しました。製作プロデューサーに会ってみたいと思うほどです。今まで言えなかった日本史の闇を照らすキーワードを、ズバリ提示してしまいました。古墳はもちろん、形が意味を現す時代のもの、前方後円墳の表象するものは他の二つも同じこと。女系と女性、女神から男根、そして佐賀県の杓子が峰。ここで装飾文化史からもうひとつ、古墳と伴に日本から装身具が消えます。

 埴輪、銅鐸、鈴、風鈴、いとしい「入れ子」を持つものすべて。
 鈴の音にて神来たる。
 三番叟にて神来たる。
「入れ子」ないもの寺の鐘、長き棒にて叩かれる。
「入れ子」なき鈴、ぼこぼこと泣く。
 いとしい「入れ子」は煩悩なのか?
 装身するは女神の技か?

こうして、「聖ベネディクトの悩み」は続くのでした。

加筆;
2012年7月13日;NHKの放送以来、ちょっと古墳関連の表象を整理しようと思い、ネットを見ました。私は全く関わりたくないのですが、あまりにも偏狭なので一言いいたくなりました。歴史ファンが多いのはうれしいことですが、狭い視野は誤解や偏見を生みます。前方後円墳は日本が先だ、韓国が先だと実にくだらないことです。人類とは何か?を考え、それまでの全世界の歴史をよく見ると、ユーラシアの片隅に流れ着いた文化のルーツが見えてくるはずです。私はそれを装飾や表象から見ているのですが、前方後円墳の表象するものは、海を越え、草原を超え、更にもっと遠く、考えもしなかった遠くから、来ています。韓国の馬具には丸に十字;「聖ベネディクトの悩み」の表象まで同じ意味をあらわすかたちで見つかります。この件の歴史ファンの方は、スキタイやサルマタイの文化を手始めに調べませんか?もっとも、この表象はスキタイよりはるか昔にここを通過していますが。孤立した文化はありません。人類は世界の隅々まで歩いたのです。偏狭な個別の研究(時代や地域、研究課題)は資料です。議論はすべての時代、すべての世界、すべての研究課題をを踏まえたうえで始めるべきでしょう。そして、自分の研究課題からの見識を控えめに述べ、違う分野の意見との整合性を確認すべきです。どの視点からも多くの整合性のある考えが、その時点でのベストアンサーなのだと思います。もう始まって何年も経ちます、母校早稲田の総合学科と言う考え方には期待しているのですが、広い広い視野を持った学生が育つように頑張ってください。

ロシアの「Fontaine」噴水にはもう一つ新しい石留めがみられます。「Serti a grains en solitaire;setting with grains in solitaire」つまり、比較的大きいダイヤモンドを留める「一つ石の玉留め」です。ふつう私たちは、四角のプレートに留めるので、四角を意味する仏語で「Carre' setting」と呼んでいます。  この留め方が1750年位に作られたジュエリーに現れたことも、「nail setting]ではなく「Raising]による「Pave' setting」)が完成したことの証明になります。「Pave' setting」)を練習する人が、まずやらされるのが「Carre’setting」なのです。しっかりした「二段彫り」ができないと石留めの歪みが目立ちます。しっかりした「Raising]ができないと十分な石留めの深さ;レリーフがつくれません。しっかりと「spit stick graver]が使えないときれいなメタルの成形ができません。石を「Raising]で留めたあとから成形するのです。贅沢な雰囲気は、メタルの成形後に石を入れる「nail setting]では出せないものです。逆に時計などメカニカル・グラフィックな仕上りにしたいときは、「nail setting]の無機質な仕上りが美しく感じます。石留めは同じデザインを違う製品にしてしまうのです。その大切さはハイ・ジュエリーになると際立ってきます。必要ないものにこころときめいて頂く仕事です、ジュエリーのデザイン、製作と作品の雰囲気に一分の隙も許されません。人間を知りたい。文化を学びたい。18世紀のジュエリーを見ていると、当時の職人の気概を感じ、自分自身に言い聞かせます。

「Gypsy Setting」から「長い時間をかけて「Pave' setting」)が始まりました。これからの半世紀でさらなる改良が加わり、19世紀の代表的な石留めになっていきます。このさらに美しい「Pave' setting」)を見る前に、もう少し1750年にこだわりたいと思います。このすばらしい職人の時代、まだまだご紹介したい石留めがあります。

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写真;キリスト騎士団騎士団章;Military Order of Christ(ワクコレクション)

この騎士団章も1750年前後にポルトガルで作られたものです。赤い十字架;Byzantine crossは18世紀後半に流行するカット;「Calibre'cut」(カリブレ・カット)されたブラジルのガーネットを「crosed setting」で埋め込んでいます。その上には「cutdown setting]されたダイヤモンド。そして周りにはロココ風にデリケートでやさしくなった「Cisele’ Setting」でブラジルの水晶を彫り止めています。大航海時代、ポルトガル船のマストに「Byzantine cross」が掲げられていたことは、十字軍の延長線上にポルトガルの海外進出もあったことを示しているのでしょう。しかしここでの注目点は、「Calibre'cut」と「crosed setting」です。

赤いガーネットの「Calibre'cut」といえば、今の私には、すぐ連想するジュエリーがあります。ロシア、ロストフ州、「ダーチ」墓地、一号墳、一号隠し穴、から出てきた「胸飾り](Grande phale're ornement de poitrail)です。スキタイの古墳から出土した黄金の「胸飾り]は丸に十字の表象とおっぱいの半円が合わさった形をしています。これらの表象がこの地で結びついたことは興味深いことです。このことは次の機会にして、半円の上に描かれた丸と十字は、「Calibre'cut」されたガーネットとトルコ石そして珊瑚が中央に丸く磨かれて入っています。ガーネットとトルコ石は三角形を交互に重ねて「Hammered cloisonne' setting」され、丸と十字を描いています。cloisonne'(クロワゾネ)とは「cloisonne' e'mail」(クロワゾネ。エマーユ)が日本で「有線七宝」と呼ばれているように、「cloison」は「隔壁」で、「cloisonne'」は「仕切られた」を意味します。つまり「cloisonne' setting」とは仕切られたセルに、「Calibre'cut」(カリブレ・カット)して形を合わせた宝石をはめ込む石留めの技法です。、「Calibre」(カリブル)は「内径・口径」を意味します。エナメルを宝石に置き換えた技法で、古くからメソポタミア、エジプト地域でおこなわれた技法です。「女神の羊水」を表すトルコ石やラピスラズリなど「聖なるブルー」を中心に、旧石器時代の「赤土」や日本古代神道の「赤」が意味する「聖なる赤」、ガーネット、カーネリアンや珊瑚が使われています。

「cloisonne' inlay(cemented)」だと、ふつうメソポタミア、エジプト地域で初期に行われた、瀝青(biturmen;ベチューマン)を用いてセルに「Calibre'cut」された石を貼り付ける方法になります。そしてBC8世紀頃から、キンメリア、スキタイなど黒海沿岸草原地帯のイラン語系遊牧民はカフカス山脈を超えて西アジアに攻め入り、西アジアを支配下に置くこともありました。彼らによって黒海北;南ウクライナ草原地帯に伝えられた。「cloisonne' inlay(cemented)」は「Hammered cloisonne' setting」となり、サルマタイ、アランなど以後のイラン語系遊牧民に引き継がれていきます。
「cloisonne' inlay(cemented)」から「Hammered cloisonne' setting」への変化は瀝青(biturmen;ベチューマン)が手に入らなくなったことと関係があると思います。純度の高い金製品ですから、セルとセルの隔壁を垂直方向からパンチすればすぐに広がり石を固定することができます。西アジアでは線、板作りの「ふくりん」のような「cloisonne'」が多いのですが、黒海北;南ウクライナ草原地帯では鋳造による「cloisonne'」になります。ただ黒海北でもギリシャの植民都市であるボスボロス王国では線、板作りがさかんでした。ここに面白い対比が見られます。同じ発想の「Hammered cloisonne' setting」でもギリシャ、ローマの影響下では「ふくりん」のように線、板作りになり、イラン語系遊牧民の間では鋳造による「cloisonne'」になるのです。このことは工房での繊細な仕事と野営地での仕事、すなわち、ライフスタイルによる技法の違いだと思います。

何年か前にサンジェルマン・アンレの城に行ったとき、すごい数のバックルを見て驚いたことがありました。この城はルイ十四世が生まれ育ち、王に即位するまで暮らしたところです。
「フランス王家の遺物の山とはこれなのか!」まぎれもなくそれはイラン語系遊牧民特有の鋳造と「Hammered cloisonne' setting」されたバックルだったのです。
またまた悪い癖で、私は妄想モードに入りました。
フランス王家のルーツはサリー・フランク族。
ただ隣に住んでいたフランク族は金髪碧眼の北方ゲルマン。サリー・フランク族、王家の特徴は黒髪長髪。
全く違う。
ではキーワードの「サリー」とは?
フランク族とサリー・フランク族との共通点は?
この共通点がポイントでした。両者ともローマの傭兵として有名なのです。ですから「サリー」はラテン語で読むべきではないか?
ラテン語で「サリー」はsalii=priests of Mars.
答えが出ました。
「ローマの軍神マールスの使徒」、つまりはローマの軍人たちです。

こんな話はいかがでしょうか?4世紀半ば、フン族に西に押されたサルマタイなどの遊牧の民はローマ領に入り、戦いに敗れてからはローマの傭兵になります。このとき前面で彼らと戦ったのは、同じく3世紀中ごろ北からローマ領に入り戦いに敗れてローマの傭兵となっていたフランク族でした。サルマタイを打ち破ったローマの将軍・ユリアヌスによりベルギー・ケンペン地方を与えられたサルマタイなどの遊牧の民は、フランク族の隣人となり、傭兵仲間となります。サルマタイは少人数ながらすぐれた乗馬術により、将軍直属の騎馬兵としてユリアヌスに従いました。そしてフランク族とは違うサリー・フランク族と呼ばれるようになります。つまり「ローマの軍神ユリアヌスの使徒」と呼ばれたのです。ただ当時の資料にも大人数のフランク族の一部の傭兵として両者は混同されています。その後、361年に将軍ユリアヌスが西ローマ皇帝ユリアヌスになってからもフランク族とサリー・フランク族は彼に従います。ここでも両者の区別は曖昧です。多くの部隊に編成されたフランク族は西ローマ全域で戦い、力をつけていきます。このなかでも騎馬軍司令官の指揮下で活躍した古参の傭兵とヒスパニア司令官のもと活躍した「高速騎馬軍」の若者たちは、司令官直属の騎馬兵となったサリー・フランク族、すなわちサルマタイなどの遊牧の民であったと思われます。
こうしたなか、ローマの公式記録に書かれた初めてのフランク王・クロディオンは、5世紀半ば北ガリアで独自の動きをみせ始める。衰退するローマと自立を模索する傭兵の様子がそこには見られます。
このフランク王・クロディオンの王位継承に歴史の証人たちは明らかに戸惑っています。
クロディオンから王位を継承したのは黒髪長髪でメロヴィング王朝にその名を残すメロヴィクです。
あまりにも容姿の違う親子の説明に神話が作られます。(神話が作られるのはこのように、記録で説明したくない権力者の都合)
「ある夏の日クロディオンとその妻は海辺にいたが、水辺に近づいていったこの妻は、ミノタウロスに似た海神ネプテューンに襲われた。そののち、それがこの怪物のかあるいは夫のかは知らないが、彼女は子供を身ごもり、メロヴィクと呼ばれる息子を生んだ。このメロヴィクを通し、フランク族の王はメロヴィングと呼ばれるようになった。」(文庫クセジュ クローヴィス)
ずいぶん乱暴な神話ですが、こののち「サリー・フランク族」はなくなり、フランク族の王家はメロヴィング王朝を作ってゆくことになります。そしてこのメロヴィング王朝ゆかりの品がガーネットを「Hammered cloisonne' setting」したサンジェルマン・アンレ城のバックルなのです。

フランク王・クロディオンが北方ガリアで征服活動に入った原因は、406年にゲルマン諸族にイラン語系遊牧民アラン族が凍結したライン川を渡りガリアに侵入し、ガリア全土を焼き尽くす「大侵入」にあります。このアラン族はカフカス山脈の北から黒海にかけて、サルマタイの次の時代をになった民族で、同じ文化を待っています。ガーネットの「Hammered cloisonne' setting」の技術も民俗の象徴のように持っていました。侵入後アラン族はガリアの地でうろうろしている時に、西ローマ総監アエティウスの傭兵になることもあったみたいですが、やがてイスパニア(イベリア半島)を目指して移動します。アラン族は中央高原からテージョ川沿いに散らばりリスボンを目指しました。 
もう皆さんお分かりでしょうか?

ロンドン五輪が始まりました。開会式の舞台をトラックの楕円ではなく、わざわざ円にして十字の通路、真ん中に火の女神・聖火を置いていました。女神の祭典にふさわしい丸に十字の演出でした。

1750年頃(1755年;リスボン大地震前)に作られた、キリスト騎士団騎士団章;Military Order of Christ(ワクコレクション)に現れた「Calibre'cut」されたガーネットの「crosed setting」。「crosed setting」になっているのは二段彫りで浮かせてガーネットを留めているためで、石留め技術の進歩によることですが、意匠としては「Hammered cloisonne' setting」を引き継いでいます。美しさを感じる感性とDNAにどんな生物学的な関連性が見つかるのか?これからの研究課題だと思います。この「Calibre'cut」されたガーネット十字架がポルトガルに現れてすぐ、ポルトガルではブラジルのゴールデン・トパーズを「Calibre'cut」してジランドールスタイル(シャンデリアスタイル);写真(1)のスタイル、にしたブローチなどが大流行しています。それと同時にフランスではブルーやピンクのペースト(ガラス)を「Calibre'cut」してプロトタイプの「Pave' setting」)に石止留めすることが流行します。写真(1)のジランドールスタイル(シャンデリアスタイル)のブローチや写真(5)のボタンなどです。(これと同じスタイルに作られたので、あとで説明しますが、これはイギリスで作られています。フランス・ロココのものは現存するものが少なく、手に入りません。)シューバックルなどのコレクションもありますが、プロトタイプの「Pave' setting」)が「Calibre'cut」された石を美しく引き立てています。スキタイ、サルマタイ、アランなど黒海沿岸草原地帯のイラン語系遊牧民の意匠が1750年頃、新しい石留めとともによみがえったポルトガルとフランスのジュエリーです。

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写真;Calibre' Cuts Strass ;ボタン(5)ワクコレクション

ここで正確を期すため付け加えます、「Calibre'cut」の流行をつくったのは、1670年頃にイギリスで作られた鉛を使った「Flint Grass」でした。ジュエリー用の研磨やファセットカットができる硬さを持ったガラスの登場で、男性用のshoe buckle やknee buckle,buttonなどに使われ1700'sの流行を生みます。ただこのガラスは無色透明でガーネットの赤、トルコ石の青を表現できませんでした。

「Calibre'cut」の文化的な歴史を感じさせる、1750'sからのポルトガルとフランスにおける流行でした。ところが技術的な側面を見ると全く違う歴史を見ることになります。ポルトガルの「Calibre'cut」されたトパーズのブローチに使われた石留め技術は、「Pave' setting」)に至るまでの石留めを効果的に使い分けています。クラスターの内側は「Raising]して「Pave' setting」)に、外側は金属を出来るだけそぎ落として(cutdown )Calibre'cutの宝石を際立たせています。大きなセンターストーンは「cutdown setting]にして少しだけ存在感を持たせています。さらに、曲線、直線表現は「Scissor Cut」の変形長方形にCalibre'cutしたトパーズを「crosed setting」しています。キリスト騎士団騎士団章;Military Order of Christに現れたByzantine crossの赤い十字架を曲線にした石留め方法です。そして一つ石のフローラルにはロココ風に「Cisele’ Setting」を使っています。なんと自由な卓越した技術でしょう。当時、ポルトガルの職人は大航海時代から始まった「パヴェ留め」の系譜に属する石留め技術を、その発展の流れとして理解し、自由に実践できたのです。

一方、フランスで流行したペーストorストラス(ガラス)の石留めはプロトタイプの「Pave' setting」)をつかっています。写真の(1)と(5)をご覧ください。「二段彫り」で石を固定し、ポンチで「Gypsy Setting」を連続して仕上げます。余った金属は玉状になっていますが、「pave'setting]のように石を留めているわけではありません。「pave'」の意味を「舗装された;敷き詰められた」と考えるとプロトタイプと呼ぶ必要はないのかもしれません。しかし、職人の目から見ると「Gypsy Setting」のポンチ仕上げと、「Pave' setting」)の「Raising]にはジュエリー技術史上200年の時間差があるのです。
プロトタイプの「Pave' setting」)にはそのルーツが1701年の作品に見られます。スペインブルボン王朝の初代として、ルイ14世が長い継承戦争の末送り込んだ孫のフィリップはフェりべ5世になります。その継承戦争の最中、フェりべ5世の「boite](エナメル製肖像画付きロケット)がつくられています。そこでポルトガルやネーデルランドでは連続した「Semi esfe'ricos setting」で作っていた王冠の底辺に「Roman setting」のように石の周りに溝をカットして、「Gypsy Setting」のようにポンチで仕上る方法がみられます。ダイヤモンドとダイヤモンドの周りに「Gypsy Setting」の金属が目立ち過ぎて、とても美しいとは言い難い石留め方法なのであえて、名前はありません。同じころ、若きロシアのピヨートル大帝の「boite](エナメル製肖像画付きロケット)が国内で作られていますが、同じところに同じような石留めをしています。この素朴な「boite]から半世紀でロシアは前述の1750~60年代のロマノフ王朝のジュエリー「Cascade」滝、「Fontaine」噴水、「Grand Bouquet」大きな花束を作るようになります。

このロマノフ王朝のジュエリーに現れた変化は、ピヨートル大帝による、ロシアをヨーロッパ列強の一員にする近代化戦略の文化的側面の一つです。歴史におけるジュエリーは、それぞれの文化文明が成熟して最後に残す一滴のしずくのように、その本質を表しています。
ピヨートル大帝は近代化を進めるにあたり、ルイ14世の帝国より,自ら敬愛するイギリス;ウィリアム三世(オランダ総監からイギリス王になったオラニエ家のウイレム三世)が統治するイギリス、オランダから学ぼうとしました。1697年3月から1698年8月まで250名の大使節団を引き連れ、アムステルダムとロンドンに滞在して軍事、科学、専門技術を学びました。そして帰国の際、1,000人の専門技術顧問を雇い入れています。
このことはジュエリーにも現れ、半世紀後の「Cascade」滝、「Fontaine」噴水、「Grand Bouquet」大きな花束などを生み出したのです。1750年当時ではポルトガル、ネーデルランド、イギリスに肩を並べるジュエリー技術の先進国になっていたのです。

ここに面白いジュエリー工具の資料があります。1751~1772年にパリで編纂された「Encyclope'die de Diderot et d'Alembert」の「Horjogerie et Orfe'vrerie」に当時のジュエリー工具がイラストされています。ジュエリーのパヴェ系譜の石留めは「graver」の歴史でもあります.先端だけを詳細するイラストレーションがないので、正確なことが言えないのですが、拡大して見る限り、3種類の大・小2本づつの「graver」のようです。Knife,Dotter(Half round),Ovalのように見えます。メモ書きには、「a' refendre et a' arre'ter」とあります、「縦に割って、押し留る」の意味です。Dotter(Half round)は「Raising]用の「graver」ですが、初期の「二段彫り」にも使っていました。また、縦に彫り込むことによって金属を割り、石に被せることが出来ます。ovalは「二段彫り」専用の「graver」です。Knifeは金属のトリミングにつかいますが、Spitstickerを使い始めてからはあまり石留めには使われなくなります。「Pave' setting」)の完成にはSpitstickerとFlatの「graver」がまだ足りていません。「Pave' setting」)の完成時、基本的な「graver」はSpitsticker、Flat、Dotter(Half round)、ovalになります。
このイラストレーションを見る限り、パリのジュエラーはパヴェ系譜の「二段彫り」は十分に完全させていたようです。そして「Raising]用の「graver」も持っていました。しかし、Spitsticker、Flatが足りないとしたら、きれいな表面仕上げは出来なかったと思います。石を埋め込んだ後カットをする「graver」が足りないのです。
一方、金属表面を仕上げるポンチは11本イラストされています。つまり「二段彫り」して石を固定し、残った金属は丁寧にポンチ仕上げしたのです。これがプロトタイプの[pave'setting]です。

「graver」の種類だけを考えたとき、パリで行われていた石留めは「Cisele’ Setting」が中心だつたと思います。あらかじめfloralにカットした板材に穴をあけ、Dotter(Half round),Ovalなどで「二段彫り」をして、Knifeで溝を彫り、ポンチで凹凸を付けるように「Gypsy Setting」をします。そしてヤスリやovalでfloralを立体彫りをして、最後にpipe settingに似た、石の周辺をポンチ仕上げします。

何故かイタリア語でGiardinetti(little garden)と呼ばれるfloralなジュエリーがフランス・ロココ期に流行しますが、その石留めがフランスで発展した「Cisele’ Setting」です。スペイン、ポルトガルの「Cisele’Setting」ではバロック期らしくレリーフのはっきりした金属がfloralな表現の中心でした、Giardinettiでは石が中心で、それをを留める金属をfloralに仕上げます。さらに、Giardinettiから金属をそぎ落とし「Pipe setting]の石枠にfloral表現が少し残るようになってゆきます。乳白色のストラス(ガラス)の下にブルーやピンクのfoilを置くことでフランス・ロココ期の色彩が表現できた時、金属の役割はほぼ終わります。
バロック期のスペイン、ポルトガルではダイヤモンド、Giardinettiではルビーやガーネットなどのカラーストーン、そしてフランス・ロココ期の完成はブルーやピンクのストラス(ガラス)です。女性が自らのファッションを選び始めた時代には、色彩が前面に出てくるようです。

私は18世紀のペーストが好きで、多くのコレクションを持っていたことがあります。現在残っているコレクションを見ていて、あることに気づきました。18世紀中頃・イギリスのバックル類には金属部分に「graver」による装飾彫りが多く入っているのです。11世紀前半の人であろうと言われている、テオフィルスによる「さまざまの技能について」(森洋訳編)のなかでSquare,Lozenge,Roundの「graver」がイラストされていますが、中世ドイツで発達した「graver」による装飾彫りはSquare graverを中心にした、いわゆる「engraving]でした。18世紀・イギリスのペースト製品に入り始めた装飾彫りは明らかに違うものです。Flatのgraverが主に使われているのです。「Bright cut],[Walk]といった彫りの技術です。どうやら、これらの彫りは石留め職人達がFlat graverをもてあそぶなかから生まれてきたようです。ロンドンで学んだときも「engraving]と「stone setting]は別々のクラスで、「Bright cut],[Walk]は石留めの授業で教えられました。当時、このような歴史的な背景には全く気付きませんでした。その他では、Dotter(Half round)を一定の角度で刺しては、同じ角度に撥ねる方法でミル打ちに似た文様を掘っています。いずれも「Pave' setting」)に用いる「graver」が使われています。「Pave' setting」)を早くから完成させた国と地域ではFlat graverの使用頻度が多くくなって、これらの装飾彫りが発達したようです。

「Flat graver」は「cutdown setting]にも欠かせない「graver」で、爪に似た玉だけを残して石の周りの金属をシャープにそぎ落とします。バロックやクラシックテイストを表現する金属の処理では力を発揮します。
しかし、ジュエリーやアクセサリーはそれをつける女性の贅沢な感性が前面に出ると、全く違う価値観が生まれます。18世紀、イギリスのダイヤモンド・ジュエリーやペースト・ジュエリーの完成度は素晴らしいものです。しかし当時、宮廷の女性たちの熱狂は圧倒的にパリ・ロココスタイルのジュエリーやストラスに向けられました。美しさの評判はパリのものだったのです。ロココ時代、パリでは「ジュエリーやアクセサリーはファッション(服飾文化)の一部」として見なす感性が生まれます。贅沢なロココ風のフェミニン・カラーと、かわいい刺繍のデコルト・ドレスにバロックやクラシックテイストのジュエリーをつける女性がいるでしょうか?この贅沢なドレスを自らの感性で選ぶことのできる女性は、ドレスの美しさを自分の美しさの表現としています。中心には自分のライフスタイルがあり、そこからすべてのアイテムを選びます。

色に関連して、私は記憶に残る3人がいます。学校法人文化学園に就職したての頃、文化出版局の松本女史と知り合いになり、先輩と女史の家に泊まりました。大学時代から「彫金」をしていたことを話すと、女史はすぐさまパリのライター(クロケット?)を箱いっぱい取り出し、これでアクセサリーを作ってほしいと頼まれました。松本女史のメッセージ「この色が美しさのすべて。」を本当に理解する文化を私は生きてはいませんでした。それから間もなくロンドンに行きました。「ジュエリー」を学んで帰国、間もなくピンクハウスの金子功さんにピアスを頼まれました。18金のピアスにしてほしいと手渡されたのは「真っ赤」なガラスでした。「きれいな色の前にジュエリーもアクセサリーも関係ない。」。その後、「ジュエリー」を学んで帰ったはずなのに、プレタ、クチュールを問わずファッション・ショーのアクセサリーを、バブルが崩壊するまでの10年近く作り続けることになります。そして最後の一人がプティコリエ・チーフデザイナーの林陽子でした。教室に入ってきてすぐ、色見が尋常でないことに気づき、アルバイトで仕事をさせました。「この娘はこの能力だけで生きていける。」いま彼女は「女性の贅沢な価値観」を持つお客様から、強く信頼され始めています。3人に共通していたのは服飾文化を中心としたライフスタイル、そして美しい色に自然体で貪欲なことでした。

もちろん、装飾文化史(1)に書いたように、ジュエリーには色々な価値があります。マーケットの文化の数ほど、違うジュエリーがあるはずです。しかし、今迄の教室でも、技術ばかりで、人間文化の話には耳を傾けない生徒が大半でした。「こんなに良い作品なのにわかってくれない。」と、一度でも考えた生徒は「ジュエリーを離れて、人間の文化について考えてください」。すべては人間が作り上げてきた、そして作っている文化総体の小さな一部です。

mne de Pompadour(ポンパドール夫人)は[Quai des Orfe'vres]にあるストラス・ジュエリーの店のパトロンとなり、Marie Antoinette(マリー・アントワネット)はダイヤモンドとペースト・ジュエリーの[Au Petit Duankerque]のパトロンであり、そこをたまり場にしていたことはよく知られています。
パリで生まれた、女性の贅沢な感性は、やがて1778年「Modes et des Costumes Francais],初めてのファッション誌を誕生させます。

1750'sのジュエリー文化もこのように、見る角度により全く違う顔をみせます。その総てが混じり合って、その時代の文化生まれ、時代の感性が醸造されます。それは今も同じで、政治、経済、科学、IT,衣食住、エンタテイメントet.,総てが混じり合って感性が醸造され、共有する人々によって感性は具現化され、今の商品にもなります。「わかってくれないは、わかっていない」と同義語なのです。

パリ・ロココのジュエリー、ペースト・ジュエリーは、私たち男・ジュエリー職人が、絶対に理解しようと努めなければいけない「女性の贅沢な感性」そのものです。理解することなく婦人物を作ろうとするなら、まだライフスタイルを確立していない若年層のマーケットを目指し、宣伝、広告で煽るだけです。ライフスタイルを確立した大人の女性の選択肢からはもれることになります。

パリ・ロココのジュエリー、ペースト・ジュエリーが良く分かる本があります。
「Jewels and Jewellery]Clare Phillips;
Victoria and Museum.
もし出来るなら、図書館や友人、本屋さんでも、見てください。次回、ロココのページ、ペーストのページについて話します。

54,56ページに大きく掲載されたフランス・ロココのペースト・ジュエリーをご覧ください。メタルを感じさせない丸みのあるフォルムに、淡いオパール・ブルー色のペースト、カットに丸みがあるため、ゆったりと隙間のある、プロトタイプの「Pave' setting」)。これがロココです。59ページにあるGiardinettiから、55ページ真ん中のイギリス、ローズ・カットのフリントガラスに箔をひいたペースト・ジュエリー、そしてロココのペースト・ジュエリーと、「Cisele'setting」の変化が見てとれると思います。ロココのペースト・ジュエリーでは単独石のフローラルはほとんど「Pipe setting」になっています。ポンパドール夫人やマリー・アントワネットは昼間のたまり場でどんな話をしていたのでしょうか?自分のドレスや肌に合うジュエリーやアクセサリーという、これまでにはなかった価値観を楽しんでいたはずです。ルイ15世とともに、ザクセンのマイセン製陶所を超えようとセーブル陶磁器を完成させていったポンパドール夫人のこだわりは、「Bleu ce'leste」[空色)であり、「Rose Pompadour」(ポンパドール夫人のバラ色)であり、限りなき色彩へのこだわりでした。青とピンク(赤に通じる色として)は古代から神聖な「母と子」の色であることは、何度か書いてきましたが、ポンパドール夫人はこの神聖な色と意味を、美しい自分色にしました。「身の回りを心地よく飾る」このロココの女性原理の考え方は、荘厳な対外的な威圧感を価値観にしてきた、バロック文化の対極にあります。女性が美しく心地よく装う価値観に色彩の占める比重が大きいことは、現代ではコスメテックの産業規模をみれば一目同然です。フランスはこれよりながく、ファッションの文化国の地位を築きます。百貨店での販売会は色々な価値観にじかにふれ合える良い機会です。「これ本物?」から「きれいな色のガラスの方が、美しくない宝石よりずっといい。」そして、身につけるかどうかは「自分にきれい。」だけの人。文化さまざま、そしてこの色々な文化が、それぞれへの商品を必要としているのです。石留めのスタイルや完成度は、その文化を体現していなければ意味がありません。石留めはやさしさや上品さ、シャープさや、かわいらしさを表現できて完成です。スタイルの選び方、完成のさせ方はいつも同じではありません。

つづいて、buckle(バックル)を見てみましょう。57ページにでています。男性用shoe buckles,knee bucklesは63ページです。服飾用に宝石やペースト、マルカジット(marcasite)などを石留めしたバックルが流行したのも18世紀の特徴になります。ここにはサンクトペテルブルグ(旧レニングラード)のものが1点だけで、他はイギリス製の バックルが出ています。フランスでも同じような流行はあったのですが、1789年のフランス革命により、飾り バックルを着けていた貴族は国外に逃げるか、虐殺されました。飾り バックルを着けていた裕福な市民は、飾り バックルをはずし、革命の資金として供出することが、革命に賛同していることの象徴的な行動として行われます。
1750年頃のサンクトペテルブルグ製バックルはダイヤモンドとサファイアを「Cutdown setting」と「Pave'setting」で留めています。帝政ロシアはバロックから発展した石留めスタイルをバックルにもそのまま続けていたようです。一方、ロシアに影響を与えたイギリス(オランダも同じ)の1780年頃のバックルは明らかに「Cutdown setting」と「Pave' setting」のスタイルを変えています。同じページにある、メタルのレリーフバックル、マルカジット「Pave' setting」バックル、そしてロココでおなじみのリボンと花(「Cutdown setting」と「Pave' setting」)のバックルでさえ、すっきりとしたよい作りのおとなしいものになっています。
同じ石留め(「Cutdown setting」と「Pave' setting」)が全く違う方向へ発展しているのです。そのことは、63ページのイギリス製ペーストshoe bucklesにも言えることです。「Calibre' cut」された石と石はぴったりと合い、ほとんど金属のみえないプロトタイプの「Pave' setting」と「Cutdown setting」で作られたペーストジュエリーは、フランスの同時代のストラスジュエリーとは、同じ石留めでありながら、まったく違うものになっています。このことは、技術てきには「Flat graver」の使用、イギリス・フリントペーストとフランス・ストラスペーストの硬さの違いがありますが、もっとも大きな要因は文化の違いが考えられます。

17・18世紀、フランスは1789年のフランス革命までブルボン王朝の絶対君主国であり続けます。ベルサイユ宮殿の貴族文化が表(後ほどフランスの地方文化にも触れます。)のフランス文化となります。他方イギリスは、王の専制政治を批判することから1642年~1649年にピューリタン革命が起こり、クロムウェルはチャールズ一世を処刑します。これから10年共和制が続き、1660年に王政復古しますが、すでに議会は大きな力を持つことになります。1688年、議会を無視して専制的な政治をしようとしたジェームズ二世を追放(名誉革命)した議会は、オランダ総監のウイレムと、ジェームズ二世の娘でウイレムの妻メアリを王にします。その際、議会の権利、国民の権利を「権利の章典」の法律として王に認めさせます。1689年、イギリスは「王は君臨すれども統治せず。」の議会制立憲君主制になったのです。
ここで問題なのは、「議会とは具体的に誰なのか?」なのです。農地の「囲い込み」で富を得た新興地主(ジェントリ)、三角貿易で富を得た貿易業者、紡績の工場制機械工業から端を発し「産業革命」で富を得た工場主、議会の権利、国民の権利とはつまり、彼らの権利です。
こうしてイギリスは「巨万の富を得て成功した男性の文化」―(何かIT革命の成功者に似ていませんか?)が表の顔になります。仕立てのよいテーラード、成功者の象徴ダイヤモンド、こうしてフランスとイギリスは現在にも受け継がれる両極端な18世紀の文化を生み出し、それぞれの文化にニーズのあるジュエリーを作ることになります。

「En Esclavage](奴隷状態)と呼ばれた、首に巻くリボンをそのままジュエリーにしたようなネックレスがロココの代表的なジュエリーです。それにしても、なんて名前なのでしょう。三角貿易の一遍は奴隷船だった時代の話です。ここにも現代まで引きずっている、アフリカに対するイメージを作り上げた出来事があります。
54,56ページにでているネックレスが「En Esclavage]ですが、後ろで止める金具はなく、リボンを通す輪が両端についています。ここにリボンを通して首にリボンを結びます。このことから、ネックレスはドレスと対の布で出来たリボンの意匠であることが分かります。ベルサイユ宮殿に入って最初の頃、Mne de Pompadour(ポンパドール夫人)はドレスと対のリボン姿で描かれることが多く、最初の頃のMarie Antoinette(マリー・アントワネット)は「En Esclavage]姿の肖像画が有名です。ちょうど、入れ替わるようにベルサイユ宮殿に暮らした二人の時間が、流行の違いに現れています。もちろん、ロココの最盛期はポンパドール夫人の後半になります。(ポンパドール夫人;1745年~1764年、マリー・アントワネット;1789~1789年)
もちろん、ロココの流行はトルコの方まで広がりをみせているのですから、イギリスの女性たちが無関心なわけがありません。1750年代にはフランス・ストラスジュエリーの店が、George Wicksによって、ロンドンに開かれています。しかし、「巨万の富を得て成功した男性の文化」であるイギリス製の「En Esclavage]は、少しフランスと違いました。

長い間書き込みができず、楽しみにして頂いている方々には申し訳ありませんでした。プティコリエの商品にダブル刻印の専門店より300個近くの発注があり、朝から深夜まで毎日石留めを続けています。プティコリエ商品の品質を守るために決めたことですが、これだけの数の石留めを一人で仕上げるのはさすがに大変です。ですが、以前に書いたビジュ・ド・クチュール・ディオールの石留めなども、ますます進歩しました。工具の工夫もかずかず思いついたり、バランスのとり方などもよりデリケートにできるようになったり、色々考えながら没頭する日々は新しいことの発見があります。この「石留め」の内容にもフィードバック出来ると思います。商品の販売も始まりましたので、ぜひご覧ください。実は、まだまだ続くのですが、11月10日より販売も始まり少しは時間が取れそうです。短い文章でも続けたいと思います。宜しくお願いします。

イギリスの「En Esclavageのは金製品が多く、ガーネットを薄めにカットして、Calibre'cutしたものは「crosed setting」に、その他は「Cutdown setting」と「Pave' setting」に近い「Cisele’ Setting」に石留めしています。天然石を使用していますが、ガーネットの下に金属箔を入れ、色の改善を行っていることから見てフランス・ストラスジュエリーと同じ意匠が読みとれます。しかし、金属箔での色の改善を行っても、ガーネットを用いて、天然石にこだわったところに男性の文化を感じます。ついでながら、1800年前後からジュエリーは、より光を取り入れ宝石を輝かせるために「a' jour setting](Open setting)になります。台座の底がなくなることにより、金属箔での色の改善は出来なくなります。1900年頃に大量に出回った「garnet・topped・ doublet]つまりガーネットと色ガラスを張り合わせた模造宝石(サンプルを集めていますが、ルビーとサファイアがあります)はOpen settingでも宝石の色の改善を可能にしました。またガラス石は銀メッキと塗装により鏡張りの技術が1840年頃には始まっています。ただこれらの技術は模造宝石であって、フランス・ロココのペーストジュエリー「美しい色彩を求めた服飾文化」とはコンセプトが違います。

「Pave' setting」の始まりまでには、このような大航海時代からの長い歴史があるのですが、1750'sのジュエリーとしてもう一つふれておきたいことがあります。「フレミッシュ・ジュエリー」です。石留めに特別のこともないのですが、この時代のジュエリーを見るうえで貴重です。バロックの中心人物、ハプスブルク家カール五世が1556年になくなると、1568年にはオランダ独立戦争がはじまります。ネーデルランド南部住民(ベルギー中心)はカトリック信仰とスペイン支配を1579年に確認しますが、ユトレヒト同盟北部七州は1648年オランダとして独立します。さらに、1700年スペイン・ハプスブルク家カルロス二世がなくなると、スペインはフランス・ブルボン家になります。1714年にベルギーはスペインからオーストリア・ハプスブルク家に領有権が移り、カール五世のカトリック信仰はフランドル地方にのみ面影を残すことになります。しかしフランドル地方に残ったカトリック信仰は一世紀前のスペイン・ポルトガルのそれとは違っていました。教会や王族に主導されたバロック様式のカトリック信仰は花々しい教会建築や前述の貴族の為のジュエリーを生みました.いっぽう十八世紀・フランドル地方の信仰は、衰えたハプスブルグ家ではなく民衆のものでした。豊かな市民から貧しい農民までもが、それぞれの素材で「フレミッシュ・ジュエリー」を身につけたのです。それでは、フランドル地方のカトリック信仰とはいかなるものだったのでしょうか?それを特徴的な「フレミッシュ・ジュエリー」の作品から見てみましょう。なお、「フランドル」と言う言葉が嫌いなフランスは「Normandie」と言っていますが、北フランスからベルギーのカトリック信仰の地域で1750年代、民衆に身につけられたジュエリーを「フレミッシュ・ジュエリー」と定義するのです。代表的な「フレミッシュ・ジュエリー」のモチーフには、「逆さ鳩」「ハート」「リボン」などがあります。この三点をあげるだけで「フランドル地方のカトリック信仰」の正体が見えてきませんか?

「逆さ鳩」とは下向きに描かれた鳥としてイラン系の遊牧民などがアクセサリーのテーマとして持っているものです。「出産」を意味します。マリア・ギンブタスが「古ヨーロッパの神々」の中で「鳥の女神」として、鳥頭の女神像を紹介していますが、ミケーネ文明でも「鳥頭の母子像」が見られます。「聖母子像」のルーツと見られる「鳥頭の母子像」です。「子宝の表象」がアフリカから旅立ったときには「鳥の女神」の形はとっていませんでしたので、ギリシャの北から黒海のあたりで「子宝の表象」と鳥は結びついたようです。日本でも「かごめ・かごめ」の歌で、古くから鳥と出産は結び付けられていたことを知ることができます。

かごめ、かごめ、籠の中の鳥はーー籠のように膨らんだおなかの中の鳥(赤ちゃん)は
いつ、いつ出やるーーいつ生まれるのだろう
夜明けの晩にーー朝方に
ずるずる、ずべった(京都地方古語)--ずるずると引っ張り出した
後ろの正面、誰?--赤ちゃん、あなたの後ろ正面にいるのが、お母さんですよ!

Saint-Esprit(セント・エスプリ)の表象としての「逆さ鳩」であるなら、「精霊」の意味も分かるはずです。世界には多くの建築物が「鳥小屋」、「鳩小屋」と呼ばれています。鳥小屋にしては、あまりにも立派な神殿、それは主のいなくなった女神の神殿です。私のコレクションにもペーストやエナメル、そしてメタルだけの「逆さ鳩」があり、いろいろな階層の人がこの「逆さ鳩」を大切に身に着けていたことが分かります。

「ハート」の意味するものは、ずばり「出産」です。北アフリカ、リビアのキレーネの砂漠に自生する、セリ科大ウイキョウ属「Ferula」種の「Silphium」の実がハートの形をしていたのです。このハートの実は出産後の子宮洗浄に使われました。このこともあって近くのクレタ島はギリシャ神話でも「出産の女神の住む島」になっています。ヘロドトスの「歴史」にもペルシャ、ギリシャ、エジプトが軍隊を送り込んでこの植物を奪い合ったことが書かれています。「Silphium」の姿はギリシャのコインやペルシャ・ペルセポリスの王宮、アパダーナ階段側面に描かれています。またクレタ島クノッソス宮殿玉座の背面にも描かれていたようです。(復元画に描かれたいます。)私の記憶が正しければ皇室「歌初め」の折、陛下の背面におかれた屏風絵にも描かれていたような気がします。キリスト教、7世紀後半の聖グレゴリウスによるエゼキエル書注解や、8世紀中頃のオロシウス史書にはハートの実を組み込んだ「生命の樹」が見られます。初期キリスト教にとっても「鳥の女神」や「ハート付き生命に樹」は大切な表象であったようです。これらは聖母マリアの属性に組み込まれることになります。なお聖母マリアの心臓をハートで表すことは、17世紀頃に始まります。

リボンはイシスのアンフ同様、「生命」、「多産」を表します。一か月前ならこう書いたでしょう。たぶん「フレミッシュ・ジュエリー」の頃はこの意味が強かったと思います。ところが、一日の休みも取れなかった昨年末,注文していた資料が大英博物館から届きました。しかし、ほとんど読むことが出来ずにいました。そして、やっと2013年正月、元旦からアトリエにこもり、資料の整理と読書三昧の幸せな日々を過ごしています。
やっと見つけました。以前から色々な表象のルーツを溯ることをしてきましたが、その足取りはアフリカ大陸を前にして途絶えていました。人類が生まれ、最初の文化を作ったアフリカ大陸から原初の表象は世界に広がったはずです。そのため昨年はアフリカ大陸からの出口四か所(イベリア半島、イタリア半島、レバント地方、アラビア半島からインド)についての資料を調べていました。もちろんこの四か所すべてからアフリカの原初の表象は世界に広がっていったのですが、私がもっとも知りたかった表象、◎、♀、※、∫、+、△、渦巻、○、卍、□、のルートはイベリア半島、イタリア半島が多かったと言えます。旧石器時代はイベリア半島が中心で、アメリカ大陸への隕石衝突(BC12,900頃)でダメージを受けたヨーロッパへはその後、イタリア半島からアフリカの人と文化が多く流出したようです。フランコ・カンタブリアからバルカン半島北、黒海北、そしてスカンジナビア半島の一回目と、バルカン半島北、ドイツ北、そしてロシヤ、シベリヤの二回目になります。篠田謙一氏の「日本人になった祖先たち」に出ているヨーロッパにおけるミトコンドリアDNAハプログループH3とハプログループVがそれぞれ当てはまります。一回目、二回目、バルカン半島北には常にアフリカの人と文化が多く流入しています。このことを認めたくないヨーロッパ学者の人たちがどうやら多いようで、資料集めには苦労しました。調べていく中でギリシャの壺絵の黒い顔を白く削った痕や、アテナ女神の衣装や頭から「蛇」を削り取った痕などを見つけた時は愕然としました。「蛇」に護られたアテナ女神とは違い、「ニケ」と「メドゥーサ」は同じ翼をもつ(バルカン半島北で生まれた鳥蛇合体女神)女神ですから、「ニケ」の首がないのが非常に気になります。「古ヨーロッパの神々」でもマリヤ・ギンブタスが参照としているバルカン半島北の、ほとんどの女神の首がありません。発掘したのですから、たとえ折れていても首も回収できたはずではないですか?? アフリカから具象的な「蛇」として、その後「渦巻」としてでていった「蛇」が、「フレミッシュ・ジュエリー」の「リボン」です。「蛇」から「リボン」「縄」「しめ縄」への変容は後日、違うテーマで書くことにします。今回の資料によって、これまでの考え方は修正が必要です。「聖ベネディクトの悩み」は予感した結果になりました。とにかく、「フレミッシュ・ジュエリー」の頃は「命」「子供」「多産」となります。

前回の修正です。もうすこし話します。
イタリア半島から北上していった前述の二回目以前、一回目の後、BC12、900年頃北アメリカ大陸に衝突した隕石の一部に焼かれたレバント地方からザグロス山脈に2種の小麦と灌漑農法を持ち込んだアフリカの部族(鈴木秀夫氏が調べた「血」のことをdam,dima.dohmと発音するアフリカの部族集団)はBC7,000頃(メソポタミア編年ジャルモ期)におおきく進出しています。サマラ期(BC5,800~5,200)の土器にはfang族が神話の表象としている○に+とギザギザ線がはっきりと現れます。ウバイド期(BC4,400~3,800)には「蛇の女神」の土偶がみられます。「ビジュアル版世界の歴史・文明の誕生」からメソポタミア編年および写真参照

このアフリカ部族集団のイタリア半島ルートはその痕跡がサルデニア島に残っています。fang族を中心とする神話表象のモニュメントはジグラッドになります。○に+はドルメンとメンヒルに現れ、サマラ期(BC5,800~5,200)の土器と同じ表象です。ジグラッドが作られたBC4,000~3,000頃から地中海に進出した考えられます。製鉄の技術も少し遅れてイタリア半島、レバント地方のルートから小アジアにもたらされています。いくらヒッタイト帝国内を発掘しても大規模な製鉄の痕跡は見つからないでしょう。インド・ヨーロッパ語族(元をただせば先に出て行ったアフリカ語族集団の共通項ですが)のヒッタイトに征服された小アジアの部族の遺跡か、むしろアフリカの製鉄遺跡の正確な年代測定が待たれます。鉄を含め、アフリカの創世神話から作られた表象の意味はもうひとつの歴史をみせています。日本の「四隅突出型丘墓」はサルデニア島のジグラッドと同じ表象です。もうひとつ、このアフリカの[血」のことをdam,dima.dohmと発音するアフリカの部族集団は黒海大洪水(BC5,600~5,500)までは幾何学的な神話表象をしています。アテナ女神、ニケとメドゥーサなどの女神像は黒海大洪水、そしてBC1,500頃の寒冷化によって南下した民族によって幾何学的な神話表象と旧石器時代のビーナス像が融合した姿です。

少し私論を書き過ぎましたか、あくまで表象からみた私の装飾文化史上の意見です。

2013年1月9日、今日はちょっとした記念日になりました。あらゆる聖地、遺跡に刻まれた聖なる表象のアダムとイブにあたる2つの表象と、それらの標章を変容させるシステムを見つけました。最後まで頭を悩ませていた、ギョベックリ・テベ遺跡のT字の巨石の意味することもこのシステムで簡単に分かりました。あらゆる世界の聖なる表象は一つの聖なるシステムの変容でした。まったく言語を必要としない、純粋に図象のシステムでした。今回のロゼッタ・ストーンはトルコでの発見です。詳しく、どのように、まとめて発表しようかと考えています。10年近く個別に考え続けた表象が列状に並んだ姿です。

「フレミッシュ・ジュエリー」とは貴族、王族のバロック期ジュエリーが、およそ百年後に民衆のジュエリーとして蘇えったものです。バロック期のジュエリーは、とくにこの頃信じられた「マリア昇天祭」をテーマにしていました。百年たち民衆のジュエリーとなっても、フランドル地方では8月15日の「マリア昇天祭」の日には、多くのハートやリボンのジュエリーが聖母マリアを飾ったそうです。今でも、成長した子供たちは母親の誕生日にハートのジュエリーを贈ります。命を与えてくれた母への感謝は、この地に古代より残る、恵みを与えてくれる大地、更に命も与えてくれる大地母神への感謝の伝統です。またジュエリーの歴史は人間文化の発達と伴にあることが良く分かります。

1750年代にはこのフランドル地方だけでなく、ノルマンディー地方や南仏で、特徴のある民衆のジュエリーが多く作られます。シルバーにペーストから貴金属に宝石まで幅広く、民衆の経済にそくしたジュエリーが作られ始めます。やがて来る革命や民衆文化の隆盛につながるジュエリーです。

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