形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

ジュエリー文化史: パリの中世リバイバル

現在開催中の、2014年春の「日本橋三越アクセサリーサロン販売会」に面白い「石留め」を用いてみました。パリでフランス第一帝政期に使われた「石留め」です。ジュエリー史などでは、19世紀半ばのイギリスの「歴史主義」「考古学主義」「中世リバイバル」などと同様に、過去の技術やデザインの模倣と言われています。イギリスの「歴史主義」「考古学主義」を深く検証してはいませんが、私がコレクションしている パリのフランス第一帝政期のサンプルは、単なる技術やデザインの模倣などではなく、コンセプト、技術ともに時代に沿った大きな進歩を示しています。ちょうど 装飾文化史(8)Stone Setting(石留め)に続くことなので、詳しく視ていきたいと思います。 今回もそうであったように、私は石留めの技術について知りたい時は、歴史を調べ、サンプルを集め、実際にやってみて、自分のオリジナルに変容させて使い、初めて理解します。

私がコレクションしているペンダントは第一帝政期に現れた「石留め」で、当時流行していたピンクトパーズを留めているのですが、女神の表象「同心円のペンダント]であるため検証中です。十数年前購入した業者からも「フランス貴族から手に入れた」以上の情報は得られませんでした。

装飾文化史(8)で書いたように、18世紀末、フランスの石留めは「cut down setting」と「pave setting」が主流となっていました。そこに突然新しい石留めが現れます。呼名もない石留めです。「磨り出しpipe claw setting]とでも呼べる石留めです。「cut down setting」は「pipe setting」した後で飾り玉を残し石の周りの金属を、文字通り切り落とした石留めです。「pipe claw setting」は「pipe setting」のようパイプの内側に引掛け用の二段彫りをして、周りのパイプをすり出し「claw爪」を作り、宝石のガードルをパイプに沈めて、爪留めをします。パイプの断面には洋彫りがされています。

長い時をかけてpave系譜の石留めは発展してきました、そしてこの後もヨーロッパにおいて主流であることに変わりなく、19世紀末にプラチナ・パヴェジュエリーで美しい完成形をみます。この流れに、一人の人間が大きな支流をつくります。「歴史主義」「考古学主義」「中世リバイバル」がなぜ現れたのか、その本質を「pipe claw setting」は語ります。人間の歴史、文化史の源流をたどれない、刹那的、表層的な解釈では本質は見えません。

一人の人間とはナポレオン・ボナパルトです。「pipe claw setting」が現れる直前に、「cut down setting」の板厚は極端に薄くなっていきます、そしてclosed setting(宝石は金属に閉じ込められる)はopen setting(底が空いて、後ろから宝石が見える)になっていきました。この技術面の変化はフランス共和国の将軍から、第一執政、そして皇帝となっていくナポレオン・ボナパルトがもたらせます。

なぜナポレオンがジュエリーの石留め方法まで変えてしまったのか? その答えは、ナポレオンのフランス皇帝、そしてイタリア王の戴冠式で使われた王冠に見ることが出来ます。

ルーブル美術館とベルサーユ宮殿に二枚あることで有名な、ダヴィットの「ナポレオンの戴冠式」は1804年12月2日に行われました。絵の中でナポレオンは、ローマ皇帝のように月桂冠を被っています。教皇ピウス七世を招きながら、自ら王冠を被ったことで有名な出来事です。ナポレオンの王冠について日本で手に入る情報は限られています。しかし、ナポレオンの王冠としてルーブル博物館でみられ、多くの本で紹介されているものは、明らかにダビットの絵の月桂冠とは違っています。(月桂冠は分解された形で展示されている)何故でしょうか?

「La merveilleuse histoire des COURONNES DU MONDE」Arnaud Chaffanjon著:この本に少し詳しい内容を見つけました。ナポレオンは戴冠式に先立ち、革命で失われた王冠を新たに作ることを考えました。参考にしたのは「Les Monuments de la Monarchie francaise」だそうで、1729年に出版されています。「フランス君主制のモニュメント」1729年版ですから、ナポレオンは少なくても四つの王冠を目にしたはずです。
出版当時、L'abbaye royale de Saint-Denis(聖サンドニ王立大修道院)には、(1) La couronne de Charlemagne(シャルルマーニュの王冠)、(2) La couronne de saint Louis(聖ルイの王冠)、(3) La couronne de Jenne d'Evreux(シャルル四世の未亡人;ジャンヌ・デヴルーの王冠)が保存されていました。そして、1722年に戴冠式を執り行ったばかりの、ルイ十五世の新しい王冠(ルーブル美術館に現存)も掲載されていたはずです。

この図録を参考にしてナポレオンお抱えのジュエラー;Etienne Nitot(ショーメの創始者)によって作られた王冠としてArnaud Chaffanjonが書いているのは、まぎれもなくルーブル美術館でみられる王冠です。戴冠式で自ら被った月桂冠には触れていません。、ルイ十五世も二つの王冠を作っているので、同時に作られたと推察します。ルーブル美術館で見られる王冠のタイトルは「Les honneurs de Charlemagne(シャルルマーニュの栄光)」ですから、ナポレオンの強い思い入れはこの王冠にあったはずです。なのに、ノートルダム寺院での戴冠式では戴冠されていません。Arnaud Chaffanjonによると、この王冠はKellermann元帥婦人が戴冠式の間クッションに載せて持っていたそうです。何故でしょう?歴史に書かれていないナポレオンの「思い」がありそうです。

月桂冠について、LJewelery(1)」Shirley Bury著にありました。やはり、戴冠式のため、Jean Baputiste Sabayにデザインを依頼、orfevre(金工細工師)のBiennaisに作らせています。そしてタイトルはなんと「La prince regent」(摂政皇太子)。やはりナポレオンは「強い思い」を胸に戴冠式に臨んでいます。月桂冠は教皇ピウス七世に戴冠してほしい冠でもなく、場所でもなかったのだと思います。

それから半年後の、1805年5月26日ナポレオンはミラノ(イタリア)のドーモ大聖堂でイタリア王の戴冠式に臨みます。Arnaud Chaffanjonの言葉では「Cesareeの司教;Carlo Bellisomi枢機卿によって運ばれた王冠はパリ同様に戴冠されなかった。]と非常に簡単な言葉で終わります。

どこの国にも触れてはいけないことがあるようです。歴史的事実は次のような戴冠式だったと推察します。Arnaud Chaffanjonの文体で再現してみました。ちなみに「ドーモ大聖堂」もいけない様で、「ミラノで」と本もネットも書いています。しかし、「聖堂は非常に美しかった。]と「ナポレオン自伝」アンドレ・マルロー著;小宮正弘訳:の中で彼の言葉が書かれています。

1805年5月26日、ナポレオンは馬車から降り立った。グリーンのpetit habillement(円形、刺繍マント)が美しい。ノートルダム寺院での戴冠式(パープルのベルベットに刺繍)同様に、Chevallirがデザインした衣装にPicotが刺繍を施している。眼前には山のごとく、威厳のある雄大な大聖堂が快晴の空に聳える。
ナポレオンは、聖職者がつくる道をミラノ大司教のもとに進む。大司教はナポレオンを抱擁し、聖堂内へ導いた。その時、讃歌と伴に神祭達の大喝采が鳴り響く、「神のみ名において、来たりし貴殿に祝福を!」

眩いばかりのキャンドルの炎に照らされ、ナポレオンは三度の聖油をうけ、荘厳な王座につく。
その後を、セザレの司教、Calo Bellisemi枢機卿が「Les honneurs de Charlemagne(シャルルマーニュの栄光)」をクッションに載せて付き従う。王冠はまるでナポレオンの表象の如く彼に付き従う。

王のレガリアをミラノ大司教から授かり、ナポレオンは祭壇を登る。ロンバルディアの鉄冠を手に取り、自ら戴冠し、ランゴバルト王国の儀式に則り宣誓をした。[Dieu me la donne, gare a` qui la touche!](神がこれを私に授けられた、これに触れるものに禍あれ!);小宮正弘訳。
ナポレオンはイタリア王になった。

戴冠式前後の「ナポレオン自伝」を読んでみても、ナポレオンは肝要なことは何も語りません。
本当に軍人で、短期の作戦は語っても、目的は語りません。これは権力者の資質なのでしょうか、日本古代史などを見ても、[記・紀」に書かれていることは、切り貼りしたジグソーパズルです。どちらも、書かれている言語;言葉で理解しようとすれば迷路にはまります。しかし形ある物としての遺物、建築物などは、多くのことを語ります。「隼人の盾」や[御崎馬」、「3mの織物」「梅と桜」「流鏑馬」「古墳の形状」「武士の鎧」「弥勒船」「魚の腰飾り」「囲炉裏の形と燃え続ける火][香木」などなど、これらの表象だけで何があったのか、大きな輪郭を描けます。すべての表象は一つの仮説にまとまります。ついでながら、古代日本史についても「確認作業」を始めました。まず、初めて(2014,4,24)の訪問先に選んだのは「吉見百穴」でした。日本古代王権の縮図が見られる場所です。ナポレオンについても「王冠の表象」に触れてみたいと思います。その前に、王冠にまつわる事実を確認します。言葉が信用できないのなら、時間軸に沿ったナポレオンの「行動」を見れば(極力、言葉は止まった時の、うそのつける参考資料とする)彼の目的は見えるはずです。軍人ナポレオンの行動は無駄なく、目標に向います。
これらの作業はナポレオンの王冠の意味、そして、それによって生まれた石留めの技術の背景を、出来る限り正確に浮き上がらせます。

この後、1805年10月にはウルムの戦いで勝利してオーストリア、ウィーンを占領、続いて、逃げたオーストリアの神聖ローマ皇帝・フランツ二世とロシア皇帝アレクサンドル一世と戦いアウステルリッツで勝利する。
ナポレオンは神聖ローマ帝国内をフランスに従属するライン同盟を作り分断、帝国内の全諸侯は神聖ローマ帝国
から脱退。1806年8月6日、神聖ローマ皇帝・フランツ二世は退位を宣言する。1807年6月フリートラントの戦いでプロイセン・ロシアの連合軍に勝利。ここにナポレオンはイギリス、スエーデンを除く全ヨーロッパを支配下に置く。

「Les honneurs de Charlemagne(シャルルマーニュの栄光)」となずけ、フランス皇帝とイタリア王の戴冠式に持ち込みながら、戴冠しなかった王冠。シャルルマーニュと同じ領土を制圧し、神聖ローマ皇帝・フランツ二世を退位させた今こそ、シャルルマーニュと同じ「ローマ王」を名乗り、「Les honneurs de Charlemagne(シャルルマーニュの栄光)」を戴冠する時だと誰しも思うはずです。「ローマ王」とは「西ヨーロッパの勝利者」とナポレオンの言葉もありました。そもそもナポレオンは幼年時にプルタルコスの「英雄伝」を読みふけりり、「ローマ皇帝」に憧れていたはずです。イタリア・エジプトで戦いながら、国民の人気と財力を蓄え、フランス革命政府の政権状況を見極めて突然帰国、そしてクーデターで政権を奪取する。この行動はあまりにも、シーザーに似ています。シーザーはシャルルマーニュやナポレオンとは反対にガリアの地で戦い、ケルトとの戦いで人気を取り、ケルトの聖域などから富を蓄えました。そして、ルビコン川を[賽は投げられた]と、名言とともに超えて政権奪取の戦いに臨みました。そしてまた、思い出してください、イタリア王の戴冠式で「Les honneurs de Charlemagne(シャルルマーニュの栄光)」をクッションの上に載せて持っていたCalo Bellisemi枢機卿はセザレ(Cesaree)の司教です。シーザーのフランス読みは専制君主を意味する「Cesar」、「Cesarien」とはフランスでボナパルト派(ナポレオン派)を意味します。

ところが、ナポレオンは「ローマ王」を名乗らず、1808年ロシア皇帝;アレクサンドル一世の大公女;アンナ・
パーヴロヴナ(15歳)に結婚を申し込みます。幼年を理由に断られると、今度はオーストリア皇帝;フランツ一世の娘、マリア・ルイーザに求婚、1809年に許可を受けて、1810年4月2日チュイルリー宮殿で結婚式を挙げ、1811年3月20日、ナポレオン二世が誕生します。

ナポレオンの結婚は、まさに軍事行動です。ナポレオン二世が誕生したとき彼は叫んだそうです。「ローマ王が産まれた!」。6月9日、生まれたばかりのナポレオン二世に彼は「ローマ王」の称号を授けます。フランス皇帝、イタリア王の戴冠式で自ら王冠を被ったことは、自らがあらゆる宗教の上にあり、自らが「ローマ王」の称号を授けられる西ヨーロッパの勝利者であることを形にして、示していたのです。

「Les honneurs de Charlemagne(シャルルマーニュの栄光)」はナポレオン家の世襲を前提に、ナポレオン二世の為に作られたようです。ナポレオン一世が「ローマ王」を名乗らなかったのは、どの時点での政治的判断なのか分かりません。ただ、彼の行動から分かることは、「ナポレオンはフランス革命を継続することも、旧王権とは違った哲学を持つこともなかった。」事実です。彼はルイ王朝の後に「ローマ王」のナポレオン王朝を作りたかっただけでした。特に、西ヨーロッパの勝利者になりながら、なんらビジョンを示すことが出来ず、ロマノフ家やハプスブルク家の血統を欲しがるようでは、権力を維持することはできなかったでしょう。
哲学を持たないナポレオンの王冠は、彼が欲しがった血統のように伝統的な物でした。しかし、だからこそ、伝統的な王冠表象の意味を示し、この時代に新しい石留めを生み出したのです。

ついでながら、、ナポレオンの皇帝戴冠は政権交代でしたが、政権交代に見える「大化の改新」は「大化の革命」だと思います。新しい身分からの権力掌握、明確な体制の改革、政治ビジョンと法令、文化の大変革。梅の実から桜の花へ、見事な革命です。

以上を踏まえて王冠「Les honneurs de Charlemagne(シャルルマーニュの栄光)」の精査を始めます。

王冠の表象を理解したうえで、テーマとしては専門的な石留めを見てみたいと思います。勿論、この二つのテーマは互いに結びついています。 ナポレオンが参考にした「フランス君主制のモニュメント」1729年版に見られる王冠のうち、かの王冠と同じ構造をもつものは、(4)ルイ十五世の王冠(ルーブル美術館に現存)です。
上から見ると○に*印で明らかなものを表象しています。「表象の文化史」から見ると(1)~(3)の王冠が表象するものが変容した形になります。

実は、私は今、シンボルが表象するものをずばずばと言葉にすることに大変躊躇いを覚えるのです。去年の文化服装学院での文化史に、その全体像がまとまった「表象の文化史」を選びました。世界の「岩絵」を中心に地球の気候史、神話、言語、植生などを参考にして、アフリカで生まれた「岩絵の表象」がどのように世界に広がり、どのように変容したのか、まとめたものです。その際、今の時代に生きる人間の感性から理性的に、客観的に離れることには、基礎となる知識と、制御できる大いなるイマジネーションが必要だと実感しました。二万年以前から見られ、あらゆる宗教のシンボルや玩具、料理、建築物、儀式などの、人間の文化の表象を理解するのです、時間軸をしっかりと持っていなければいけません。キリストより一万年以前に描かれた十字、一万年前にあった「酒船石遺跡」の意味と表象(吉見百穴の埋蔵文化財センターでもこの表象に出会いました。殷の甲骨文字にも見られます。)、この時間のギャップを自由に行き来しなければいけません。人間の表象文化はこの時間、同じ意味を持ちながら変容してきたのです。ですから、今の「言葉」が意味するものも時間軸にそって変化させて理解しなければいけません。

又、「文化史の意味」についてもイマジネーションが必要です。私も色々な文化史を言葉にします。「何が専門なんだ!」とお思いの方も多いと思います。しかし、イメージしてください、人間が文化を持った時点からその人間文化は球体のように、あらゆる方向に時間とともに膨らみ、広がります。大きく膨らんだ今の球体には、あらゆる方向にドアがあります。その一つ一つのドアは「何々の文化史]と呼ばれます。しかしして、どのドアから入っても、時間軸をたどり、その本質に深く迫れば、同じ人間文化の原点に行きつきます。ドアの近くには、「資料としての文化史」や[風俗としての文化史」があり、大いなる多様性が示されます。奥に行けばいくほど、多様性は失われ同じ文化にまとまります。いわゆる「文化人類学」のようにまとまってしまいます。「ジュエリー文化史・宝石の石留め」といった小さいドアも、一万年以前からの表象の時間軸に繋がっています。人間にとって大きい、小さいではなく、時間軸のどの時点での生まれた文化なのかが重要なのです。
表象の文化についての書き込みを読むときには、どうかその表象が現れた時代の人間になったつもりで読んでください。その時代に変容した表象に近づけます。ナポレオンの時代、電気もないのですから。ほとんどの表象は「言語」以前に生まれているのですから。

「Les Monuments de la Monarchie francaise」に掲載されていた(1)~(3)の王冠、すなはち、(1) La couronne de Charlemagne(シャルルマーニュの王冠)、(2) La couronne de saint Louis(聖ルイの王冠)、(3) La couronne de Jenne d'Evreux(シャルル四世の未亡人;ジャンヌ・デヴルーの王冠)は同じ王冠表象をしています。円形の輪と東西南北・四個の三葉(フランスではユリ紋章、要するに三俣の矢形、すべて同じ)。この矢形を外側に倒して平らにすれば、アフリカから出ていった人類文化にとって大切な、基本的な二つの表象の一つが見えてきます。一万年以前からある表象です。一万年以上経過して、キリスト教表象では聖ベネディクトのメダーイ、仏教表象では十字三鈷杵などに変容します。日本では島津家の家紋に現れます。主な流れとして、アフリカからサルデーニャ島、そして北イタリアではいろいろなバリエーションで岩に彫られました。アルプスを超えてドナウ川流域から黒海(大洪水前で淡水湖の頃)では、マリヤ・ギンブタス女史が「古ヨーロッパの神々」の中で、「宇宙生成論と宇宙論のイメージ」として取り上げている表象です。

「シンボルが表象するものをずばずばと言葉にすることに大変躊躇いを覚える」と言った意味がお分りでしょうか。マリヤ・ギンブタス女史の頭脳は古代表象を見て、「宇宙生成論と宇宙論のイメージ」と考えたのです。多くの先生方の文章にも同じような傾向を感じるのです。まだ言葉さえ持っていなかったその頃の人類が、形而上学的な思考をするでしょうか?一見アカデミックな語彙を見て、分かったような気になる私たちもまた、時間軸がずれています。古代表象の意味は幼い子供が理解できて当然なのです。幼い子供の言葉で説明できるはずなのです。

長い間書き込みが出来ませんでした。2014年6月19日から銀座和光で「プティコリエ アクセサリーコレクション」が始まり、本館三階の三分のニを占める展示になっています。6月24日までですので、ぜひご覧ください。ビンテージガラス、半貴石、合成石などを美しく見せる「石留め」になっていると思います。私は今、肩を冷やしながら職人から普通モードへの頭の切り替えをしています。展示会用新作と通常商品用のオーダーは何百の単位でした。すべての商品を最高の品質で仕上げるためには「石留め」と金具は自分の手で仕上げることを決めています。6月に入ってからは,炎症した肩をテーピングで固め、痛み止めで止まらない痛さとの長い戦いでした。しかし、職人としての長い時間の集中からは、新しい技術や工具の工夫が生まれています。ここが私の原点です。

矢印が男性達(男性器)なら円は女性(女性器)です。何度も言いますが、一万年以前の表象です。「性の文化」を持った現代人の頭で、ゆめゆめ考えないで下さい。言葉を変えれば「多産」だつたり、「子孫繁栄」なのでしょうが、部族単位の個しかない時代ではより動物に近い「生殖」が適切だと思います。東西南北からの矢は部族単位の「生殖」を示すようです。ブラジル、アマゾンの奥地に住む「円の部族」に似たような部族単位の「生殖」が見られます。森において、女性たちだけの出産があり、母が取り上げれば部族の一員となり、取り上げなければ妖精として森に返す。その世界においては、父という存在も観念もない。部族が命をつないでいくことが非常に困難な時代、「生殖」は動物的な本能です。価値観や観念ではなく本能です。そういった意味で人類の大切な表象の一つは「本能的表象」になります。本能を記号という形で認識する文化の芽生えです。もう一つの大切な表象が「円の部族」のように「大地を円」として認識することですから、「観念的表象」と言えます。
自分以外の存在物(他者)を記号で認識する文化の芽生えです.「書」をなさるかたはお判りでしょうが、象形文字から漢字が生まれる時、この表象はそのままの意味で漢字になっています。また二本の矢は「友」になります。源氏の祖を持つ安倍首相の「三本の矢」には、私には、この意味が感じられるのです。紀伊半島や群馬の古墳に突然現れた、洗練された立体的な「鉄の鏃」を国立博物館の展示で見たのは1ヶ月前でした。「的と矢」も同じ表象として神事に多く見られます。

この様に「Les Monuments de la Monarchie francaise」に掲載されていた(1)~(3)の王冠の表象は人類文化の基底として現代の私たちの周りに遍く存在します。この表象で王冠を作ったことの意味は帝國の確固たる存続を願ったのでしょうか?考えてみましょう。

世界の王冠の表象と石留め技法については新たな(章)をもうける予定ですが、前に見たように、神聖ローマ皇帝・フランツ二世はナポレオンによって退位しました。そこで、同じ表象を持つ「神聖ローマ帝国冠」について少しふれておきます。

かなり、表象文化史に近い話になりますので、この王冠の歴史的背景は次章にします。そして、今回のテーマである「石留め」に注目します。この王冠の写真を大判写真集の「The World's Greatest Treasures」;THAMES AND HUDSONで見たとき、私はこの宝石台座の名称を知りませんでした。調べてみましたが、特別な名称がありません。あまりにも特徴的なので思わず名称が浮かんできました。
〔Heilig Marke Vorstrllung〕独;ハイリヒ フォールシュテェルング ファスング;神聖表象台座。
つまり、宝石を石留めしている総ての台座が、前述している(1)~(3)の王冠の形状なのです。この王冠自体は八枚のパネルで出来ているのですが、台座が小さい王冠の集合体になっているのです。三葉は矢印で「鳥の足」に似ています。コウノトリが赤ちゃんを運んだり、神輿の上に鳥が乗っている訳が説明できそうでしょう。水鳥が水辺に残す足跡は神聖な表象なのです。イタリアで作られ初期鉄器時代の「大地のオブジェ」に水鳥が数多く乗っている理由も説明できます。ほとんどの神話で「鳥」は重要な役割を果たしています。日本の神話でも鳥は神聖な役割を果たしています(羽の生えた女神や天を舞う羽衣もこの表象です)。西アジアの「彩色土器」にも古くからこの「鳥の足跡」が見られます。

2014.7.7;新体制になって、NHKは面白いドキュメンタリー番組を作らなくなったと思っていました。ドラマも「平清盛」の時見られた表象文化史的な「含み」がなくなり、真実の歴史をほのめかすことも無くなっていると思っていました。しかし、「花子とアン」で「こぴっと」が話題になっていることを知り、この耳慣れない音は表象文化史のアンテナに引っかかり、思わず、サンスクリット辞典を見ていました。やっぱりありました。「COPITA]、サンスクリット語ではTAは子音になるようです。この言葉は、トルコ語、ペルシャ語で今も「COPITA GLASS」などに使われています。チュウリップ型のグラスのことです。ここまで分かれば、表象文化史の知識があれば、すべての時間軸に結びつきます。あとは確認作業です。この言葉が山梨の甲府にあるのなら、「COPITA GLASS」に繋がる表象がそこで見つかるはずです。ありました。「山梨県教育委員会;山梨県古代官衛・寺院跡詳細分布調査報告書:1995.3」この報告書の「横畑遺跡」出土品、No.4、No.5に壊れていない形の「COPITA GLASS」があります。もちろん、素材は違いますが、儀式用の表象として使われたものだと思います。つまり、古墳時代の須恵器はこの変容した形になります。No.14の陶器片の線刻は、今王冠の表象で見ている、矢印の連続で「水の流れ」(男性からの水の流れを表象したもの)を表します。ここでは祭儀が行われていたと思います。また「瑜伽寺遺跡」の「石列遺構」も水の祭儀に関連したものだと想像がつきます。甲府市中道地区の「曽根丘陵」に、古代、大きな勢力があったといわれていますが、円墳は確認できました、梅畑はあったのか知りたいところです。「そね、そが、すが、」の呪文です。そして次に「COPITA GLASS」が表象するものは明確です。実は「王冠の表象」を説明するため、出アフリカ・イタリアルート、つまり「東西南北からの矢」を三葉で表した表象を見ていました。アナトリア、西アジアに展開した部族は、同じ意味の表象を違う形で広めました.男性的「矢」のかわりに、女性的「壺」を東西南北に口を広げたのです。実はこちらの方がより古い表象になります。「壺を持った女神」やアナトリアの「壺の女神」、縄文土器にも「壺の女神」は伝わってきています。後の時代の「河の女神」は壺から水が流れ出ているように見えますが、この表象の水は壺にながれ込んでいます。西アジアで広く信仰された、「水の女神」;アナーヒーターは「水を持つ者」として、子宝、安産、家畜の生殖、作物の豊穣を表象して、ゾロアスター教;大地神;アールマイティとガンダーラの地で習合、1~2世紀に仏教に取り入れられ、観音菩薩になります。故に観音菩薩は大地の表象を冠として、手にアナーヒーター同様に壺を持ちます。ゾロアスター教、インドとガンダーラの仏教、そしてイラン系の遊牧民の数部族、ギリシャの影響、インド・バラモンとの共存の末、日本でも三十三間堂に居並ぶ数多くの観音菩薩が生まれます。とゆうことは、「山梨県教育委員会;山梨県古代官衛・寺院跡詳細分布調査報告書:1995.3」に観音菩薩像も見つかるはずです。ありました。

東畑遺跡で見つかった小金銅仏は、三面宝冠を頂いています。三面宝冠の装飾は大地の表象以外見たことがありません。ギリシャ・アテネ女神(petit habillementが大地の表象)と同じ表象を持つ、大地の女神です。ゾロアスター教の大地の女神;アールマイティは「すべてのものを生みだす大地の守護者として、女たちの保護者」です。すんなり下した左手にはアナーヒーター同様の壺を持っているので、観音菩薩像と確認できます。
松ノ尾遺跡からは銅製阿弥陀如来座像がみつかっています。ゾロアスター教のアフラ・マズーダを想起させる、無量光仏です。釈迦如来ではなく、阿弥陀如来単独像であることには、大切な意味があります。近くにある長野・善光寺の観音菩薩も仏教ではめずらしく「女たちの保護者」であり、大化元年・654年絶対秘仏となっています。弥勒菩薩像が見つかれば、その持っている表象からもっと詳細な情報が読み取れるのですが、残念です。

そしてもうひとつ「チュウリップ型のグラス」を解き明かすヒントがあります。BC16C~BC1180頃アナトリアに栄えたヒッタイト帝國・ヤジルカヤ遺跡に掘られた神々の表象です。ヤジルカヤとはトルコ語で「碑文のある岩」、そしてその通り、神々の名前が特定できるのです。もっと大切なのは、このレリーフは「男神達と女神達の出会い」の構図で彫られているのです。この遺構は女神と男神が同等に描かれた大変貴重な時間軸の「ある時」を示しています。「太陽の女神」や[戦いの女神」を見ると、メソポタミア文明でアナーヒーター女神と同じような役割を果たしていたイナンナ女神の「葦の表象」が見られます。そしてそれが変容した、後にゾロアスター教に入る前の、アッカド王朝時代の表象も女神とともに見られるのです。「生殖の表象」がアフリカを出て、西アジアで女神とともに変容していった歴史がここに彫られています。一方男神は、農耕社会の定着により、乾いた砂漠に恵みをもたらす「雨」の象徴として「嵐の神」がアフリカからレバントを通り、アナトリアや西アジアにやってきました。そしてこの時、この地で両者は同等に対峙しました。それがヤジルカヤです。
「太陽の女神」と「嵐の男神」は最高位の「しるし」として、エジプト文明で良く知られた命の表象「アンフ」をチューリップ形に変容して持っています。「COPITA ANKH」(コピッタアンフ)といってもよいと思います。
この時点で壺はチュウリップで表彰され神聖なものになっています。私の私見では「COPITA GLASS]は「神宿るところ」、「コピット頑張れ!」は「神頑張れ!」になります。ついでながら、キリスト教の「聖杯」も同じ表象です。また「テ!」は同じくサンスクリット語の(Tekshnishtham=心をピリィとさせる、強く刺激する)だと思います。

ヒッタイト帝國・ヤジルカヤ遺跡に掘られた神々の表象でもう一つ気づくことがあります。生殖表象の矢印と水の流れは(水の儀式)狩猟採集から遊牧の文化で継承されたと思います。一方、農耕文化に於ける「水の儀式」は「降り注ぐ雨が大地に染み込み命の芽吹きを生む」ことであり、神の表象とは雨をもたらす「嵐、雷、稲妻、虹、雨粒を表す文様や垂」になります。農耕文化の発展は二つの「水の儀式」、つまり多産と豊穣を結び付けます。観音菩薩が大地の表象宝冠を頂き、水壺を持つとき、「大地母神」となります。

さて、サルデーニャ島から北イタリアルートの矢形表象に戻りますが、私は矢形表象を考える度に頭に浮かぶ事があります。1962年から二年半、アメリカのテレビドラマ「ベン・ケーシー」が放送されていました。毎週、ドラマの冒頭でナレーションとともに、黒板に“♂(男) ♀(女) *(誕生) +(死亡) ∞そして(無限)” の記号がチョークで描かれるのです。今でも忘れられない新鮮で強いインパクトを受けました。今になって考えてみると、矢形の生殖表象の部分が独立してそれぞれの表象を作っているのが解ります。
矢印(♂)の記号を生物学の雄(オス)の記号として使い始めたのは(実際には表象の原義として分類した)、カール・フォン・リンネ(1707~1778)だと言われています。ここで非常に重要な事実に気付きます。
「分類学の父」と称されるリンネは「超自然的な偏見を理性によって克服しようとする、啓蒙主義の先駆者であること、そして植物の分類に際し「花(おしべ・めしべ)という生殖器官の構造に着眼したことです。
つまり、リンネが矢印(♂)の記号を生物学の雄(オス)の記号として使い始めたのは、形而上的な神秘主義の占星術に当時見られた火星の記号からではなかったことです。存在する物のデータを収集して理性的に分類した結果であったことです。植物の分類で花(おしべ・めしべ)という生殖器官の構造に着眼し、ラテン語で分類していた彼の眼には、当時ラテン文化に受け継がれ存在していた生殖表象を、動物の生殖器官の構造と理解することは容易なことだったと思います。彼は存在していたこの記号を分類したのです。

この記号の存在を窺わせる事実で王冠の表象に戻ります。
「(4)ルイ十五世の王冠(ルーブル美術館に現存)です。
上から見ると○に *で明らかなものを表象しています。「表象の文化史」から見ると(1)~(3)の王冠が表象するものが変容した形になります。」前述の *印をリンネは(誕生)の記号に分類したのです。
カール・フォン・リンネ(1707~1778)とルイ十五世(1710~1774)は同じ時代を生きました。リンネが植物学から動物学に研究の分野を広げたのは、ウプサラ大学に移った1741年以降です。ルイ十五世の戴冠式は1722年ですから、ルイ十五世の王冠の*印はリンネの分類と同じ表象と考えられます。ナポレオンの王冠「「Les honneurs de Charlemagne(シャルルマーニュの栄光)」が○に*印で作られたのはナポレオンがフランスの王冠で唯一実物をみることができた「ルイ十五世の王冠」の影響でしょう。

私が最初にこの表象に興味を持つたのは、メソポタミア文明でイナンナ女神のシンボルとして使われていたからでした。*印は八弁のナツメヤシの花になり、さらに四弁ずつの二色の文様になり、エジプト文明では四分の一重なりの四弁花の連続文様になります。弊社ジュエリー・アクセサリーブランド;プティコリエ、プティフィオリがイベントを開催している日本橋三越は古代表象に溢れたシカゴ派の神殿様式の建築です。一階は赤の柱で囲まれた四角の聖域に観音菩薩と同じ表象を持つ女神(いずれ詳しく紹介します)がお立ちになり、お客様を迎えます。聖域の周りはナツメヤシの花に繋がれたシャンデリアが守ります。そして地下食品売り場の壁面、天井は「四分の一重なりの四弁花の連続文様」に覆われています。このシカゴ派の神殿様式の建築文様からは、イナンナ女神の変容が見えてきます。四角の神殿、鳥( サエーナ)のシンボル、そして*印の表象、灌漑農業の技術など、メソポタミアに現れたシュメル人は黒海周辺から南下したことを示しています.小林登志子女史によればナツメヤシは古代メソポタミアで「農民の木」と呼ばれていたそうです。それが「豊穣のシンボル」となり、楔形文字のナツメヤシに*印(dingir)がつく頃、「聖樹・生命の樹」となり、多産と豊穣のイナンナ女神が生まれます。日本橋三越;地下食品売り場は命を育む「生命の樹」に覆われているのです。「ウルクの大杯」などに彫られた「葦の束」で出来たイナンナ女神のシンボルは「カンティーユ」であり、「ペルシャ王権のシンボル」になり、「イシスのアンフ」などに変容します。身近なところでは「こいのぼり」に使われ、多産と豊穣を表象しています。

「言語」の側面からも*印はセム系ではなく、シュメル人以前に(BC6000年以前)「絵文字」としてやってきて、シュメル人が「古拙文字」から「楔形文字」に完成させます。やがてシュメル人は消えますが、「アッカド語」を話すセム人の楔形文字の中に残ります。

日本橋三越といえば、2014年8月27日~9月9日;本館一階アクセサリー売場でジュエリー・アクセサリーブランド;プティコリエ、プティフィオリのイベントを開催します。プティフィオリの作品として「RODEIA;ロディア」を作りました。ポルトガル・リスボン;国立古代美術館で見た「司教杖」の「六弁花」がどうしても気になっていたのです。宗教史の源流に咲く「花」をぜひご覧ください。

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rodeia(ロディア);petit fiori

「Les Monuments de la Monarchie francaise」に掲載されていた(1)~(3)の王冠が表す生殖の表象、すなわち○に○より大きい十字が重なり、交差した○の外周上に内向きの←印が四つ。この変容した表象は、ヴァルカモニカ岩絵群やマリヤ・ギンブタス女史が収集した中央ヨーロッパのテラコッタなどに8,000年以前に現れています。四つの←印を○の中央に集めると、○に*が現れます、ルイ十五世、そしてナポレオンの王冠の基本構造です。カール・フォン・リンネの時代まで*(誕生)の変容は意味をなしていたのです。
王冠の話に戻ると、ナポレオンの王冠を作ったEtienne Nitot(ショーメの創始者)はルイ十五世の王冠の本物(宝石以外)を精査する機会を得たことになります。ジュエリー史にとって大切な瞬間だったと考えます。

以前に「神聖ローマ帝国冠」の台座を「神聖表象台座」と名付けましたが、王冠の台座には技術的な特徴が見られます。十世紀~十一世紀に作られた「神聖ローマ帝国冠」は当然ビザンツ帝国の王冠台座の技術を受け継いでいます。王冠ですから、神々しくて、しかも重量は軽く作る必要があります。ローマ時代のbezel(覆輪)の下にアーチ形に透かしたパイプを蝋付けして、高く持ち上げたアーチ台座〔Archetto setting〕や高い逆円錐のパイプに「Clauw爪」を蝋付けした円錐台座「Kegelfassung」などです。いずれも東地中海や西アジアで古くから発達した「板作り;たたき延ばした薄い金属を蝋付けで立体に仕上げる」技術です。そして更に軽くするために、アーチ形の透かしから覗くと、bezel(覆輪)の底を宝石が引っ掛かるぎりぎりまで透かしています。これはなんと、十八世紀末に始まったと言われている「open setting」なのです。

 

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大地;petit fiori

次章の予告が消えてしまいました。代わりに私のジュエリー作品「大地」をアップします。十分に次章の予告となる表象デザインです。そして、今回のテーマとなったナポレオン時代の「pipe claw setting]のペンダントトップ画像を見ながら、この章のまとめに入りたいと思います。ところで、検索ワード「大地の表象」で「rodeia」の画像が現れます。「rodeia」についてまだ何も説明していません。どんな検索エンジンを使っているのでしょうか?正解です。この件も次章になります。

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pipe claw setting;ワクコレクション

ナポレオンによってもたらされた「アンピール様式」は、服飾において、十八世紀に続きデコルテされた胸に大きなネックレスを必要とします。カメオ、インタリオ、ローマンモザイクなどローマ帝國風であり、かつ軽い素材が多く使われています。ただ、十八世紀より続く流行で、色の綺麗な半貴石(ピンクトパーズ、クリソベリル、アメシスト、シトリン)が引き続き使用されました。十八世紀には「Pave' setting」系譜の流れのままに、「closed setting]に石留めされ、金属箔などで色調整されていた半貴石です。ーー石留めについて詳しくは装飾文化史(9)ーー ナポレオンの時代、大きくて綺麗なカッティングが出来るようになった半貴石は「open setting」になります。
長い話もやっと集約されてきましたね。お分かりでしょうか?

ナポレオン時代の「open setting」は、古くから「板作り」を得意とした王冠職人の技が「closed setting]の[pave'setting]系譜の時代に現れたことだったのです。
だから、よく言われるように、この時代からopen settingが始まったわけではありません。ただ、やがて「Pave' setting」系譜の歴史に、この「open setting」が取り入れたことは初めてだったのです。

「アンピール様式」の服飾にはローマ帝國風の大きなネックレスがj必要であったこと。
美しく大きくカットされたピンクトパーズ、クリソベリル、アメシスト、シトリンなどが手に入った事。
ナポレオンの王冠をつくる機会を得て、ルイ十五世の王冠を精査することが出来たこと。
新しい石留めの登場には色々な理由が考えられます。

ただ、王冠職人の「open setting」の技と言っても、目的を達成するための構造には時代性が現れます。
ローマ時代の〔Archetto setting〕はパイプの下層に、覆輪の上層部、
ビザンツ帝国の「Kegelfassung」はパイプの下層に、「Clauw爪」の上層部、
十世紀~十一世紀に作られた「神聖ローマ帝国冠」は連珠台座の下層に、矢状の爪台座の上層部、、
ルイ十五世の王冠はCisele(洋彫り)された下層に、「cut down setting」の上層部、
ナポレオン時代はパイプの下層に、「cut down setting」の上層部
などです。

私がコレクションしている当時のネックレスは、パイプの下層に、「cut down setting」の上層部が直接ロウ付けされたものですが、「open setting」と「closed setting]の両方を使っています。小さい宝石は「closed setting]で石留めし、大きな宝石は「open setting」になっています。Old European Brilliantにカットされた宝石は高さがあり、下層のパイプ部分が高くなりすぎるようです。またカットが良くなったことで、「closed setting]のパイプ内に入れた色調整の金属箔は必要なくなり、「open setting」のほうが、美しく見えました。
ピンクトパーズ、クリソベリル、アメシスト、シトリンなどの色調が好まれたことも「open setting」で明るくする要因だったと思います。

HARRY N.Abrams.Inc 出版の「The Necklace」にこの時代のジュエリーが解かりやすく掲載されています。98,99ページにダヴィットの「ナポレオンの戴冠式」で見られるものと同じ細工のネックレスがでています。Chaumetの創始者Nitotはルイ十五世の王冠を精査したはずです、王冠と同じく大きな宝石を「open setting」で「cut down setting」にしています。ナポレオンの宮廷を飾ったNitotのジュエリーは下層は違ってもルイ十五世の王冠と同じ石留めをしているのです。金属の塊に宝石を埋め込む「Pave' setting」系譜ではなく、王冠職人の板作りで貴金属を薄く、軽くしています。私がコレクションしているネックレスは0.5mmの板厚に13x10mmのアメシストを「cut down setting」しています。大きな色石が流行してくると、この石留めは姿を消していったと思います。難しいのです。0.5mmの板を巻いてパイプを作ります。そして、出来たパイプの内側に0.2~0.25mmのカットを入れて宝石を引掛け、叩き込みます。叩き込む鏨の力に耐えられるように、宝石は0.2~0.25mmのカットにしっかりと引掛かっていなければ下に落ちるか、斜めになってしまいます。つまり、石留めのパイプは、宝石がその厚みの半分にぴったりと合っていなければいけません。小さくてエッジのしっかりしたダイヤモンド、サファイアなどは問題ないのですが、大きくてガードルに丸みを持つ、半貴石を石留めするのは大変です。

そこで登場するのが、「pipe claw setting」です。
「The Necklace」106,107ページに見られます。薄い板で宝石を取り巻くようにパイプを作り、Claw爪を切り出してパイプ断面に洋彫りをします。宝石のガードルがパイプに隠れる深さにリング状の線をロー付けして宝石を沈め込み、「 claw settin」するのです。「cut down setting」と違って「 claw settin」は鏨で叩き込む力が加わらず、易しい石留めになります。 「cannetille」の繊細な細工には、パイプを薄くすることで華奢なニュアンスで石留めされ、最適な石留めになっています。

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