形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

トピックス(9)「イシュタル」の表象(3-9)

 

翼をもった雨による平衡の女神(イシュタル)の神殿

「Wedding Contract」に現れた二羽の鳥とTinos(ティノス島、キュクラデス)のDovecots(鳩小屋)

 

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(41)Dovecot(鳩小屋)、Tarabados,Tinos(ティノス島、キュクラデス)

  Greek Design & Decoration ABRMS

 

二羽の鳥はBC5,000年頃からコーカサス地方、北西イラン、アナトリア、シリアでよく見るようになります。(参照)やがて一羽の「豊穣の大神」は「天空紳 アン」となり、宇宙に偏在する神として「鳥」の姿で現れることはなくなります。上部(後期)マグダレニアン(Supe'rieur Magdale'nienne)期(参照)に、「雨」と「平衡」が人型となり生れた「雨による平衡の女神」がコーカサス地方に伝播、Vulture(ハゲワシ)の翼をもつ「冥界の女神」となり、アナトリアの「ヴィーナス」を習合して「生命の女神(出産の女神)」ともなったもう一羽の鳥、すなわち「イシュタル」が「翼をもつ女神」としてコーカサス地方、北西イラン、アナトリア、シリアから世界に羽ばたいていきました。ヨーロッパの古代史に興味のある方はご存じでしょうが、数多くの「鳥小屋」の上には「マリア教会」が建てられ、現存する「鳥小屋」はほとんどありません。しかし、幸いなことにキュクラデス諸島のティノス島にその姿が守り続けられてきました。この建造物に現れる表象を見れば、すぐに理解できるはずです。 

 「フリードリッヒ・フォン・シラー」の「歓喜に寄す」に出てくる「智天使」も、ユダヤ教に取り入れられた「イシュタル」であることは、「天空神」と「翼をもつ女神」の関係から、理解できます。

 それでは表象の連続性から「雨による平衡の女神」から初期キリスト教遺物の数例を見ていくことにします。そうすれば、初期キリスト教への流れから、逆にDovecot(鳩小屋)の意味がよく分かると思います。

 

 

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(42)Dovecot(鳩小屋),Tinos(ティノス島、キュクラデス)

      Greek Design & Decoration ABRMS

 

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(43)Dovecot(鳩小屋),Tinos(ティノス島、キュクラデス)

      Greek Design & Decoration ABRMS

 

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 (44)Dovecot(鳩小屋),Tinos(ティノス島、キュクラデス)に表れた表象

  和久ノート

 

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東京オリンピックのエンブレムも「輝く雨」です。そもそもクーベルタン男爵ピエール・ド・フレディ氏がフリーメイスンであったことは周知のことです。そうすると五輪も「雨」で、遍在する「雨による平衡の女神」の集結であり、競技者とともに戦い、燃え盛る火を消して自然界の「平衡」を達成する祭典だと考えられます。東大寺二月堂修二会(お水取り・お松明)と同じ概念ですね。奈良県五條市念仏寺の「修正鬼会」では「生命の誕生」を表象する「まいまい井戸」で最後に鎮火します。(参照)

 

 

 現在もTinos(ティノス島、キュクラデス)は全ギリシャの聖地です。島の中央には聖母マリアを祭ったバナギア・エヴァンゲリストリア教会が多くの巡礼者を集めています。

写真(44)は同じTinos島にある「私達の貴婦人」教会前の石畳です。写真(44)Dovecot(鳩小屋)の(1)屋上飾りを除くすべての表象で成り立っているのが分かります。Our Lady(私達の貴婦人)は仏訳すれば「Nortre Dame・ノートルダム」ですネ。フランスのノートルダム大聖堂前にある「POINT ZERO DES ROUTES DE FEANCE(フランスの起点)」標識(参照)の表象が「雨による平衡の女神(コーカサス地方の八芒星)」であることの意味もこれで理解できます。

 「私達の貴婦人」は同じ表象で示される「Dovecot(鳩小屋)」の主以外に考えられません。

キュクラデス諸島にキリスト教の勢力が及んだ時、島の住人は「女神の神殿」を「Dovecot(鳩小屋)」と呼び、自分達の「貴婦人」神殿を守ったと考えますが、いかがでしょうか?また「八芒星」が見られることから、キュクラデス諸島はコーカサス地方アナトリアの影響下にあったことが分かります。

 

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(45)Pebble pavement in front of the church of Our Lady in Chora,Tinos

      Greek Design & Decoration ABRMS

 

写真(46)「LE BAPTISTERE SANT-JEAN」を見れば初期キリスト教、とりわけ「聖ヨハネ」に関する表象は、基本的に「Dovecot(鳩小屋」の表象を引き継いでいることが分かります。しかし、キュクラデスの「Dovecot」と少し様子が違います。それは写真(47)に見えるように「火と雨による平衡」から「太陽と雨による平衡」への変化です。

 コーカサス地方では古くから太陽暦を用いていたことが分かっています。そして、バルカン半島での コーカサス地方・部族の文化「Varna culture」(参照1),(参照2)では「Magurata cave」に「太陽」の絵が描かれています。しかし、この時点では「太陽と雨による平衡」の概念は生れていなかったと考えています。その概念はアイルランドあたりで生まれたのではないでしょうか。

ヨーロッパへの初期農業の伝播をともなった彼らの移動は、農業における「太陽」の重要性も伝えたようです。そして、アイルランドからイベリア半島に南下した「巨石文化」は、写真(48)の陶器片表象に見られるように、はっきりした「太陽と雨による平衡」を概念として生み出します。そしてその「平衡」の象徴として「虹」が現れます。(後世、日本の太鼓橋はこの虹の表象です。)

こうして、「お釈迦様ポーズ」は「火と雨による平衡」と「太陽と雨による平衡」の両方の表象となります。(二つの「お釈迦様ポーズ」が90度回転で組み合わさると「卍」になります。)

ニューヨークやパリの「自由の女神」が手に「火」、頭に「太陽冠」、足下に「水」を示すのは、「この両方の「平衡」を表現したためだと解ります。(ちなみに、ニューヨークの「自由の女神」・台座には両国の「フリーメイスン」の友情が刻まれています。)

それから、この頃の「太陽表象」は必ず「火炎」を伴います。単なる「〇」は「雨」の表象になります。その概念を引き継ぐ、アイルランドの「ケルト十字」や「太陽十字」は「〇・雨」と「十・平衡」のシンボルです。「死」に繋がる「墓石」は「冥界の女神、冥界への案内役」とも見なされた「雨による平衡の女神」に繋がります。(参照)

 

そして、パリの「ノートルダム大聖堂」のモニュメントには多数の「ケルト十字」が用いられています。

 

 

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(46)LE BAPTISTERE SANT-JEAN(サン・ジャン礼拝堂;聖ヨハネ礼拝堂)、4~7世  紀頃、フランス最古のキリスト教建造物

  初期ヨーロッパ美術 学研

 

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(47)サン・ジャン礼拝堂;聖ヨハネ礼拝堂の表象;和久ノート

 

写真(47)の(2)の「輝く雨」を「〇(雨)」で囲み、縦横に連ねると「七宝繫ぎ」になります。長くブログを書き色々な仮説をたててきましたが、やっと文様の意味を謎解く表象を見つけたようです。

 

 

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(48)陶器片表象(雨と太陽による平衡),Ozieri culture,Sardinia,c.BC4,000~BC3,800;

      The Language of GODDESS

 

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(49)ケルト十字;Wikipedia

 

「平衡」の表象である「十字架」上のケルト文様「ギローシュ」はコーカサス地方由来の「絡み合う二匹の蛇・平衡」」が変容したものであることが分かります。「注連縄」などの「縄・縄飾り」も「平衡」の表象です。

 

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(50)Church of  St. Spyridon Kardamyli, Mani

     Greek Design & Decoration ABRMS

 

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(51)和久ノート

 

写真(50)はギリシャ南部にあるペロポネス半島(Peloponness Peninsula)から、さらに南部に伸びる三の半島の真ん中にある、マニ半島(Mani Peninsula)の教会です。

この地にキリスト教が及んだのは11世紀のこと、それまでの居住民の思いは、初期のキリスト教会に表された表象から謎解くことができます。キリスト教布教の初めには、当地の「聖なるもの」をキリスト教と関係づけることから始まるからです。

写真 (51)、ここに現れた表象は地理的に近い「Dovecot(鳩小屋)」よりは、写真(46)「ヨハネ礼拝堂」に近いことが分かります。そして「アーチ形」の変容もよく理解できます。明らかにこの部族は、アイルランドから「巨石文化」とともにイベリア半島を南下した文化と同じ表象で教会を飾っています。バルカン半島の北から南下したと彼らが語るように、私は「Vucedol culture」と関係する部族ではないかと考えています。

その理由の一つは、「Vucedol culture」はコーカサス地方の部族文化である「Varna culture」(参照) の部族などが、西に移動を始めたBC3,000年頃に起こった文化で、陶器、刺繍などの文様は明らかにコーカサス地方の物だからです。

理由その2は、写真(50)に現れた表象はイベリア半島、モロッコサルデーニャ島などで発達したものに近いことから、フェニキア人などの地中海おける交易活動で結び付いていた地域が考えられることです。

写真(48)と写真(50)を比べると、この数世紀に発達した「アーチ形」が良く解ります。このことは写真(54)にも表れています。上部の「アーチ形」には「輝く雨の花」が描かれ、下部の柱・トップには「平衡」の表象、その下部には再び「輝く雨の花」。アーチと柱の繫ぎには、右に「輝く雨」、左に「平衡」の表象です。総じて、「アーチ形」+「柱」は「太陽と雨による平衡」を表しているのです。この後の「ロマネスク建築(Romanesque Architecture)」は「アーチ形」+「柱」の建築物であるとさえ極言できます。いずれまとめてご紹介します。

 

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(52)The Yannakos Kiskyras house,Langada,Mani

        Greek Design & Decoration ABRMS

 

同じMani peninsula(マニ半島)の飾り板、複数の雨粒構造に浮かび上がる「平衡」の十字架。そして雨粒を持つ鳥女神

 

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(53)The Vouyouklakis tower(The central defensive tower),Layia,Mani

          Greek Design & Decoration ABRMS

 

Mani peninsula(マニ半島)に居住するドリアン(Dorieus)はBC1,150年頃にバルカン半島北西部から南下し、ペロポネソス半島クレタ島ロードス島、そしてエーゲ海の島々、さらにタッシリ・ナジュールの岩絵などにも現われているので、北アフリカに住むようになったと考えています。このことは、これまで表象から見てきたバルカン半島北西部の文化、そして「バルカン言語連合」から推察される「古代バルカン諸語」と「Doric Greek(古代ギリシャ方言)」の関係からも、同じ答えを導き出せます。

これまで見てきたバルカン半島北西部に起こった文化は、「ソリュートレ(Solutre')文化」の突然消滅(約13,000年前)で地中海方向に逃げて生き残り、海洋民となった部族と、「Supe'rieur(13,500BP~12,000BP)」・上部マグダレニアン文化の部族(両部族とも北アフリカからイベリア半島を渡って進出してきた)の文化が融合して生まれた、 BC6,400~BC5,500年頃の「Cardium pottery culture」(参照)に始まります。(参照)

続いて「Butmir culture(BC5,100~4,500年頃)」(参照) が、アドリア海からネレトヴァ川をさかのぼり、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナへと広がります。これらの両文化は、北アフリカから進出したの部族の文化になります。 そしてこのアドリア海ーネレトヴァ川のルートは、北アフリカと海路で結ばれ、後にバルカン半島からの撤退・進行の経路にもなります。 

 「Butmir culture」の終焉(BC4,500年頃)はコーカサス地方の部族がこの地方を制圧した時に当たります。

続くBC4,000~3,500年の「Cernavoda culture」は北コーカサス地方の部族と黒海沿岸のスラブの部族の同盟になります。だだ、レバント地方で約110,000年前の「巻貝ビーズ」が見つかっているように、「巻貝・渦巻の概念」をもってあアフリカを出た「オーリニャック時代」(参照)の部族は、東ヨーロッパ、南ロシア、バルカン半島アナトリア地方に先住し、その一部であった部族が分岐して「スラブ民族」になったのですから、「渦巻の表象」を持つ部族とスラブの部族を分けているのは、「乗馬の文化」になります。

そして南ロシア草原遊牧騎馬のスラブ部族が バルカン半島にやってくるのは、BC2,200年以後の「Yamna culture」の部族です。この余波で「北アフリカから進出していた 元「Butmir culture」の部族」と、制圧して共存していたコーカサス地方の部族が、この頃南下した痕跡は、岩絵の表象や白人と黒人の混血部族で証明されます。北アフリカの「プール人」のDNNに興味を持っています。

最後にインドーヨーロッパ語族の遊牧騎馬民族アルバニアに現れ、マケドニアクロアチアセルビアなどに南下し始めます。(BC1,300年頃)

この時に、この地を離れたのがドリアン(Dorieus)と呼ばれた、コーカサスの部族、そしてコーカサスの部族と同盟を結んだ黒海沿岸のスラブの部族になります。この時クレタ島北アフリカに馬がもたらされています。ただ、レース文様など工芸品を見ると、旧ユーゴスラビアなどの山間部に、コーカサスの部族が残った可能性があります。

Y-DNA(父方染色体)-「R1b」は黒海沿岸ースラブ部族のものです。写真(55)を見ると、コーカサスの部族とともに西に移動した結果がよく表れています。ただイベリア半島から北アフリカへの移動は多くなかったようです。なのに、サハラ以南のアフリカに強く表れています。「Europedia」によれば「R1b-V88]」はカメルーン北部の男性の60~95%に見られられるそうです。この状況はドリアン(Dorieus)の南下に帰されると考えられます。

ちなみに、「Yamna culture」の遊牧騎馬・スラブ部族は「R1a」です。

 

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(55)Hapulogroup R1b , Europedia

 

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(56)Hapulogroup R1b , Europedia

 

そしてバルカン半島北西部は、「Yamna culture」のスラブ遊牧騎馬民族アルバニアに現れたインドーヨーロッパ語族の遊牧騎馬民族になり、現在まで二者の入り混じった状態は続いています。

 

f:id:blogwakujewelry:20161006185929j:plainhttps://blog.hatena.ne.jp/blogwakujewelry/goddess-wakujewelry.hatenablog.jp/edit?entry=17680117127169810032

 (82)チェチェン・イングーシ共和国(北オセチア共和国東隣)

   秘宝・草原のシルクロード 並河萬里写真集

          (参照)

 

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 (83)グルジュア(ジョージア)、南オセチア自治州、ウシュグリ村(南オセチア自治州  西隣);バルカンの花、コーカサスの虹、蔵前仁一 旅行人

 

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(53)石板彫刻、ナルボンヌ(南フランス)、ペルラン教会、8世紀

   初期ヨーロッパ美術 学研

 

二羽の鳥(参照)、雨粒に満たされ「渦巻(生命)」(参照)が付いた十字架「sheveronX(平衡)」(参照)、右下には「雨の花(雪)」(参照)、「輝く雨」、そして「雨」。

 このように「雨による平衡の女神」の表象そのままに、キリスト教の布教は始まります。つまり、その当時民衆が「神聖なものとしている表象」に「新しい概念」を少しづつ置き換えていく手法です。ここに紹介した「Dovecot(鳩小屋)」から「初期キリスト教・教会建築」に現れた表象は、その一例です。写真(53)と写真 (54)を比べると、同じ構図の十字架(平衡)の中に、写真 (53)では「雨粒」、写真 (54)では「輝く雨(◆)」が見られます。ただ違うのは、「フリードリッヒ・フォン・シラー」が「死の試練を乗り越えた友」と呼び、「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」が「磔になったただのユダヤ人」と呼んだキリストが「平衡の体現者」として表れていることです。(参照)この「死」による「平衡」とは「豊穣」であり「生命の誕生と発展」が考えられます。私の仮説ですが、コーカサス地方ではこの「死による平衡」が生れ「首狩り」の風習が生れたと考えています。(参照)

写真 (54)でも コーカサス地方の「大神(天空神)」と「イシュタル(雨による平衡の女神、智天使などなど)」は、「嘴の違う二羽の鳥」としてモロッコユダヤ共同体と同じい現れ方をしています。(参照)

 

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 (54)キリスト磔刑パウロ書簡、8世紀後半

    初期ヨーロッパ美術 学研

 

      二羽の鳥(参照)が止まる「輝く雨の表象」で満たされた十字架。そしてキリストの衣服文様がグスタフ・クリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」写真(1)・黄金の騎士と同じsheveronV(平衡)になっています。「ベートーヴェン・フリーズ」の表象表現は想像以上に論理的で意味深いようです。(参照)

フリードリッヒ・フォン・シラーは「歓喜に寄す」の詩にキリストのことを「死の試練を乗り越えた友」と歌っています。「友」から「雨による平衡」を表す十字架(sheveronX(平衡)と一体となり、さらには「神の子」への変容、「天空神」と「鳥」(参照)がいます。「三位一体」が見えてきます。

 

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