形而下の文化史

表象文化史・ジュエリー文化史・装飾文化史

 

ビジュ・ド・クチュール:プティコリエの原点

1;パリ ビジュ・ド・クチュールの時代背景とペーストジュエリーの歴史

bijoux de couture-出会いと言葉
1995年、当時フランス雑貨のビジネスを始めていた旧カネボウ:リリー・エ・ダニエルの担当課長から連絡が入りました。
「見て欲しい物がある。」
本社ビルに伺うと、宝石ケースに収められたネックレス、イヤリング、ブローチが現れました。
「商材としての価値を教えて欲しい。」
当時の私は、コスチュームジュエリーに特別な関心を持っていませんでした。パリやニューヨーク、ロンドンで蚤の市を覗く程度でした。その頃の知識と技術は、アンティークを含むジュエリー、その技術を応用したショーアクセサリーや各種撮影用アクセサリーの製法と素材開発などでした。

それは魅力的なアクセサリーでした。
パールと霧氷の様なgivreガラス(注1)の立体的なハイ・ジュエリー。
ジュエリーやそれのコピーアクセサリーとは違う独特な作り方。むしろ、パリ・オペラ座のコスチュームアクセサリー資料で見たものに近いものでした。

「すばらしいものです。日本のアクセサリー屋では難しいでしょう。」
ジュエリーとアクセサリーの技術と知識には自信があったので、私はこの美しいアクセサリーの素材入手、作りの手間と技術、着用性(耐久性)、メンテナンスの難易度、マーケットなどをデザインの他に考えていました。
「ビンテージのディオールです。」
「こんな商材が数多くあるのですか?」
「あります。売れますか?」
「ハイ、ただし売り方が問題です。フランス文化を商品にしなければだめです。それとメンテナンスが重要です。」
この時のリリー・エ・ダニエルは、まだフランス雑貨のブランドでした。

「フランス文化を商品にする。」
この耳慣れない言葉を担当課長はよく理解してくれたと思います。
ビンテージ・アクセサリーをブランド化するのですから,若者志向でファッションを全面に出したり、コレクターを対象にしてはビジネスになりません。しかし、色々な文化を楽しみ、生活して、その文化総体を価値観としたライフスタイルを持つ大人は多いはずです。ここにマーケットがあります。

誤解を覚悟で極言すれば、「デザイン」と「装飾」はおおきく違います。「装飾」においては、他デザイン分野の持つ、合理性、機能性、社会性などはそのデザインプロダクトを通じて、二次的に文化として受け取ります。「装飾」の本質は文化総体です。
ちようど同時代に存在した、バウハウスやル・コルビジュエとアール・デコの対比を見るようです。
アール・デコの本質は「装飾」であり、他方は合理性、機能性を中心としたデザイン分野です。他方が他方をデザインの在り方をめぐって非難しても、かみ合いません。

人間の文化は連続性の上にあり、人の文化総体も、差異はあるものの、過去の文化を理解し、楽しむことができるのです。
装飾文化が花開いた、よき時代のビンテージ・アクセサリーは、今という時代にブランド商品となりうるのです。
特に、パリ・オートクチュール全盛期といった文化史的意味、そして、当時の安い人件費や、今では手に入らない素材などの時代性は有利に働きます。

次に着手したのは、フランス雑貨として入っているリリ・エ・ダニエルの商材の確認、そしてそれら全てを理解する為の資料作りです。カネボウに提出した資料のコピーが今でも手元にあります。ガラスの歴史、アクセサリーの歴史、メタルテクニックの歴史、ビーズとガラス石(ババリア・シュリンジア、ボヘミア、シィレジア)、オートクチュールの歴史とデザイナーの個人史、プラスチックの歴史と特性、Vogue L'official等のアクセサリー広告、ビィンテージアクセサリーブランドと歴史、スワロフスキィーの歴史、アメリカに移民したジュエラー達、金属の歴史と特性、工芸年表、デザイナー年表、ダイヤモンドカットの歴史、銅合金の種類・特性・歴史、リングの歴史、などです。
当時はインターネットも無く、大変な作業でした。今でしたら、もし興味のある方は検索してください、アクセサリーがよく理解できます。

寒い,冬枯れのパリでした。ダニエル氏に会い、商品を見る為にパリまで足を運びました。
クリニャンクールのカフェで初めて会ったダニエル氏は、鋭敏そうな深い瞳をした、やさしい曲者ーーそんな印象だったと思い出します。
「プロフェサール!」
私の役割を知っているダニエルは、皮肉をこめて、先ずそう呼びました。話してみると、ダニエルのことが少しずつ理解出来る様になります。
「腹芸の出来る蚤の市のボス」
初対面で、わたしはダニエルに好感を持ちました。いつのまにか「ジョージ」と呼ぶようになったダニエルの瞳も同じように答えてくれたと思います。
さーさ楽しい知恵比べどこまで許し、どこまで言うか。
「これから実践的な知識が試される。」そう覚悟を決めました。
知識は知識として、自分自身がジュエリー職人であることが、おおいに役立つはずです、ビンテージの時代は手作業が多いので仕事の違いは直ぐ分かります。
特に40's,50's、ディオール時代の石止は、当時のハイ・ジュエリーを取り入れ、難しく面倒なことをしています。

1日目はフランス雑貨のダニエルショップやビーズ類の倉庫を見て、次の日にダニエルの自宅に行きました。
ビジネスになる商材の質と量に出会えるのでしょうか?

ダニエルは理解していました。
フランス、オート・クチュール用のビンテージアクセサリーとの要求に見事に応えていました。

パリ40's、50'sのオート・クチュール用アクセサリーで、私が考える高品質のものには、幾つかのチェックポイントがあります。
(1)鉛合金のラバーキャストは使用しない。
重さ、耐久性、メンテナンスに問題があり、品質が著しく劣る。
1952年から一時、ディオールのメゾンで売られていた、Mitchel Maerは、私見ですが、このためオート・クチュール用アクセサリーの品質としては問題があります。これはディオールにとって実験だったと思います、鉛合金にガラス石はすべてハンド・セッティングするように求めています。柔らかい鉛合金には容易くパヴェ・セッチングでも可能です。ディオールの宝石石止に対するこだわりでしょうか?

(2)シャトン(台座)は銅合金のプレス製を用いる。
メンテナンスで石の留め直しが、かなりの回数可能です。鉛合金は不可、銅合金のキャストは数回可能。ただし、メッキの品質による。

(3)接着剤は使用しない。
メンテナンスのとき、ガラス石のミラーコーティングが破れたり、各種よごれの原因となる。

(4)土台、連結など作りは、銀か銅合金の線材で手作りする。
ロー付けで組み立てられた、いわゆる線作りは着用性、耐久性に優れ、メンテナンスが容易である。
丈夫で、軽く、大きく、立体に出来ることでオートクチュールのアクセサリーを、より華やかにすることができた。

(5)ジュエリーの色彩ではなく、モードの色彩にコーディネイト出来るガラス石を使用する。
特にディオールの55,56年は、ディオールと初代ダニエル・スワロフスキー(パリに孫のマンフレッドが駐在)のコラボが実現した年で、美しい「pierres taillees du Tyrol」チロルの石=スワロフスキーの石が作られ、使用されました。

以上のようなことが問題だったのです。ちなみに、弊社プティコリエの商品コンセプトにも、同じようなこだわりがあります。

ダニエルはコレクションだと言っていましたが、状態、メンテナンス方法などから見て、蚤の市の色々なルートから集められたと感じました。そして、アメリカ製のコスチュームジュエリーなどは紛れ込んでいませんでした。

「これでオート・クチュールを切り口にコンセプトメイキングが出来る。」
ダニエルの確かなルートと知識を確信しました。

「ビジュド・クチュール」そう呼ばれる特別なアクセサリーがあるのをご存知でしょうか。これらは、女性美の粋、オートクチュールが全盛だった頃に、シャネル、ディオール、ニナリッチ、ランバンといったクチュリエが、彼らのドレスのデザインに合わせ、一点一点創らせた贅沢なアクセサリーです。

手にとってご覧ください。感触を味わってください。細やかな細工は、当時の職人がジュエリーを創るのと同様の技術と、美意識をもって生みだしたものです。この精巧さ、この暖かみは、現在では実現不可能です。

選んでみてください。いま着ている服に合わせてみてください。贅の限りをつくしたオートクチュールと共に歩んだビジュ・ド・クチュールはデザイナーのメッセージが込められた絶対美を奏でています。それは、現代の装いにもコーディネートできます。

これらのアクセサリーに魅せられ、長い年月と情熱をかけて集めたのが、リリ・エ・ダニエルです。
多くの国が同社のコレクションを切望しているなか、ダニエル氏のご理解とご協力によって、ここに初めて鐘紡が日本にご紹介することを実現いたしました。
私どもはこれを、単にヴィンテージとして扱う気持ちはございません。ジュエリーデザイナー和久譲治氏の全面的サポートにより、あくまで現代の女性に使っていただけるよう、万全のメンテナンスを計りました。これは、ある意味で新たな文化の再生、また交流であるとも自負しております。

フランスの成熟した文化を今に常に女性の美しさを提案してきた鐘紡が、今ここに、新たな女性の美しさを、自信を持ってご提案いたします。」

これが「ビジュ・ド・クチュール」と言う言葉を用いた、「リリ・エ・ダニエル」最初のプレスリリースです。私が作った基本コンセプトをもとに担当課長が書いたものです。多少、営業的な誇張もありますが、基本的な戦略は同じです。
オート・クチュールのメゾンで売られたアクセサリーを端的に表す言葉として、この言葉を選びました。実際には、1980sになって英語圏で使われ始めた言葉だとと思われます。50sのディオールは「Bijoux choisis par Christian Dior」,「Christian Dior bijoux et cadre Pierres taillees SWAROVSKI」VOGUE 1956 SEPTEMBRE のようにフランス語に特有な、正確な語義の羅列で広告を掲載しています。
60s始めからは、「Bijoux haute couture」FEMME #488 Hiver 1961~62 が使われています。これは私見ですが、「ビジュ・ホ・クチュール」の英語音は心地よくありません。そこで、少なくても間違ってはいない様なことばとして、フランス語で「Bijoux de couture」と読ませたと思います。英語「of」の使い方をフランス語にあてはめています。アメリカの英語には正確さより、イメージを大切にするマスコミュニケーションの特徴が見られます。

また、同じコンセプトをファッション雑誌のライターに書いていただくと次のようになります。
Oggi 1997.1月号 構成/矢野文子
「パリの宝物をまとう喜び パリのモード界がまだオート・クチュールと蜜月を過ごしていた、今世紀半ば。服と同様に、装う喜びを求めてつくられたアクセサリー”ビジュ・ド・クチュール”が存在しました。宝石を身につけるのが目的のいわゆるジュエリーとは異なり、より自由なデザインを実現するため ルビーよりも赤く、サファイアよりも青く、ダイヤよりもまぶしく輝く高級ガラスを使用した装飾性の高いものでした。1920年代から1960年代にかけて、第一次世界大戦後の女性の社会進出とともに誕生し、アール・デコの文化の爛熟期、経済恐慌、そして第二次大戦を生き抜き、戦後の機械化により惜しくも姿を消していったビジュ・ド・クチュール。”古き良きもの”の復活がファッションの一大傾向となっている今、この世にふたつとない美しさが、私たちを再び魅了します。その貴重なコレクションをパリに尋ね、歴史と技術の粋を尽くした不世出の”宝物”をご紹介します。」

このように、旧カネボウ・ブランド:リリー・エ・ダニエルのキャッチコピーを「ビジュ・ド・クチュール」として、フランス雑貨からのイメージを変化させました。もちろんプレスリリースや雑誌掲載だけですぐに受け入れられるはずもなく、色々な企画が実行されました。その中でも重要視したのは、以前、旧カネボウとディオール販売の契約があった全国の専門店に伺って、パーティ形式の講演会と販売会を催すことでした。山口の湯田温泉から秋田の専門店まで、全国の皆さんとお会いして、お話しすることで多くのことを学びました。
「ビジュ・ド・クチュール」を理解して頂くためには、装飾文化史を話す必要があります。ティータイムの雰囲気を壊すことなく、いかに楽しく、興味を持って文化史を聞いていただくか。試行錯誤と学習の数年でした。そのせいでしょうか、当初のころ,文化服装学院での文化史の講演は興行と呼ばれました。興味を持って、喜んでいただいて何ぼ。難しい内容をいかに楽しくするか。
そして、数年後には都内デパートでの講演会も開かれます。

'02 オータムコレクション&ティーパーティ
日時:2002年10月10日    
会場:松屋銀座 4階「カフェ マキシム・ド・パリ」
「フランス文化史におけるジュエリーとアクセサリー」講師:ジュエリーデザイナー和久譲治

[リリ エ ダニエル」の商品を日本へ紹介するにあたり、Bijoux de couture(ビジュ・ド・クチュール)という言葉を使用しました。それはHaute couture(オート・クチュール)のために製作された、たとえばChanel(シャネル)やDior(ディオール)のモードを飾るアクセサリーといった意味です。
これに先立って、1901年フランスでBijoux de fantaisie(ビジュ・ド・ファンテージィ)という言葉が生まれ、素材ではなくデザインと着用性、いわゆるモードの一部としてのアクセサリーが認知され流行してゆきます。第一次世界大戦後の、女性の社会進出、そしてシンプルで直線的になったモードは、このBijoux de fantaisieの大流行を生みます。この時代(1920~30年代)、Chanel,Schiaparelli(スキャパレリ)などのクチュリエのためアクセサリーが試作され始めます。敢えて「試作」というのは、Salvador Dali(サルバトール・ダリ)などの芸術家やJean Cocteau(ジャン・コクトー)などの文化人、Henkel&Grosse(ヘンケル&グルース)などのアクセサリー製作会社、Jean Schlumberger(ジャン・シュランベルジュ)などの宝飾家がいろいろなアイデアを試みた為です。この時代ヨーロッパは工芸・芸術運動から始まり、デザインという新しいコンセプトが生まれようとしていました。Beau Bijou(ボ・ビジュ:ジュエリー)とBijoux fantaisie,そして芸術家の作品などの融合はSchiaparelliに代表されるBijoux d'art(ビジュ・ダール)を生みます。
第二次世界大戦後、新しいアートとデザイン活動の中心地はニューヨークに移り、パリは再び文化の都となり、その服飾文化を背景にBijoux de coutureは完成されてゆきます。
MASON GRIPOIX(メゾン・グリポア)、BIJOUX VENDOME(ビジュ・ヴァンドーム)、MAISON CIS(メゾン・シス)、ROGER SCEMAMA(ロジャー・セママ)、JEANNE PERAL(ジャン・ペラル)などがDior,Fath,Yves Saint Laurentの為にアクセサリーを作りました。これらのBijoux de coutureを見るとき、ルイ14世治世のベルサイユ宮殿以来、常にモードの中心地であり続けたフランスの特異性に気が付きます。それはHaute coutureと同様に、徹底した色彩と高い技術による手作業へのこだわりです。”美しい色彩とそれを実現する為の高い技術”と言い換えた方がいいのかもしれません。
本日はそれらのことをフランスの歴史と「リリ・エ・ダニエル」の商品に拠って見てゆくことにします。今回の催しが皆様にとって興味深いものになりましたら幸いです。

'03 スプリングコレクション&トークショー
日時:2003年4月15日 
会場:日本橋高島屋 1階アクセサリーサロン

ヴィンテージアクセサリー 「その歴史的・素材、技術的価値と選び方」:ジュエリーデザイナー和久譲治

時代を経て、尚且つ光を放つヴィンテージアクセサリーを手にするとき感じる充実感や贅沢さは何なのでしょう?
それらには流行やイメージ先行の商品では味わえない、上品さと存在感があります。
ヴィンテージアクセサリーの本質を考える前に、貴石を用いない美しいアクセサリーが作られた時代に思いを巡らしてみましょう。

①ファイアンス(焼き物)とガラスビーズ/エジプト(新王国時代:紀元前16c~13c)
②ペーストジュエリー 1/フランス;ロココ、イギリス産業革命期(18c~19c初頭)
③ペーストジュエリー 2/オーストリア・ハンガリー帝国、イギリス(19c後半~20c初頭)
④ビジュドクチュール、コスチュームジュエリー/フランス、アメリカ(1940~1960)

①は古代表象を美しく表現し、①以外では表象の意味以上に、美しさが存在価値となっています。そして④では、美しさのみが存在価値となります。このようなアクセサリーは、それぞれの文明、文化の爛熟期に作られています。そして技術的(特に石留)にも、それらの時代に代表的な技法が生まれています。
今、ここでは、リリ エ ダニエルの主なる商品である1940’s,50'sのビジュ・ド・クチュールについて美しさと技術(素材を含む)の側面から見てゆくことにします。とくにアンティークから現代までの
技術を持つ職人として、評論家とは違う手法で解説できればよいと思います。
1940’s、’50sと1970’s~のアクセサリーは何が違うのでしょうか?
1960’sの文化的変動とは?
ここ数年、私は新しい大人のアクセサリーのニーズを強く感じています。更なる文化的な変化の時を迎えている気がしてなりません。
これらの事柄についての私見が、皆様のアクセサリー選びに役立てば幸いです。

「美しさが存在理由となるアクセサリー」このリーフレットで初めて使ったこのフレーズは、他社ファッション誌に使用されるなどしました。表象性と純粋造形の意味合いが今の文化の中で変化したことの表現です。

残念ながら、企業本体の事情で「リリ・エ・ダニエル」はなくなりました。しかしながら、今でも弊社HPはこの名前で検索されています。多くの人にこの企画は「楽しみ」を与えることができたと思います。

大人のためのアクセサリー、つけていただく方のファッション、知性、文化の表現を手助けし、何よりも楽しさを与えられるもの。

(有)ワクジュエリーメイキングは2008年9月、この想い、知識、技術、素材を引き継ぐアクセサリーブランド「プティ・コリエ」を立ち上げました。

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